![]() ![]() |
わたしがいる病棟にも認知症患者が入院している。上品そうな老女なのだが、昼夜の別なく叫んでいる。「ヘルパーさん、来てください、お願いです」「ヘルパーさん、助けてください」「食事をしておりません、誰か食べさせてください」「ごはん、ごはん、ごはん」7種類ほどの文言の繰り返し、張りのある明瞭な発音である。彼女は自力での食事はかなわない、従って発言は悉くが食事とその介助を求めるもの。要するに終日、飯はまだかと叫び続けているのである。
認知症には一過性と完結型とがあって彼女は典型的な完結型である。完結型だとコミュニケーションがまったく取られない。看護師はあの手この手と考えている。昨日は静かだったが、睡眠薬が効いたらしい。その薬がまた効くとは限らない。
一過性の認知症患者を同室させるのは有効である。一種の気取りのようなものが生じるのか、かなり温和しくなる。重症患者が同室したが、こちらは重症ゆえの無反応。そうすると彼女は朝病棟に電気が灯る6時から食事が出る8時まで、重症患者を一顧だにせず、寸暇を惜しんで「ごはん、ごはん」と叫んでいた。
完結型であっても、環境に対しては敏感に反応する。この反応、意識の変化に興味を持たされる。わたしは医者ではないのでよく分からないが、「意識の変化」の底流に流れる大きな無意識を治療に利用できないものか。人はもともと無意識のかたまりのような存在だし、意識などというものは表層のごく一部にしか過ぎず、それ自身客観的な実在性をもたない一種の仮象に過ぎない。健常者はどうも意識を過信しすぎるきらいがある。本来、基軸や中軸を持たない意識は揺れ動き、常に変化しつづける。言い換えれば、認知症そのものが治療を要する病気かどうかきわめて猜疑わしいと思っている。
それにしても愕くのは男女を問わず、ベッドから動かれなくなった患者もしくは自力で食事が摂られなくなった患者の食欲への執着である。食事の時間が近づくと催促し、出たものは一切残さない。結果、看護師には大量の糞尿の片づけが待っている。その糞尿の山を前に病院とはなにかを思う。
追記
今朝、老女が元いた施設へ戻った。彼女に訪人(まれびと)は絶えてなかった。と云うことは、身辺を気にかける者が居ないと云うこと。にもかかわらず、彼女の日常生活は続く。病院は静かになったが、施設での彼女の無意識(埋没する自己なのか、それとも解放された自己なのか)の徘徊はつづく。
「貧血と失神」が一つのヒントになった。息が切れるようになり、階段を上られなくなり、走られなくなり、自転車に乗られなくなった。この8年、半年に1回は失神に襲われるようになった。糅てて加えて同時期にはじまったEDである。わたしの場合は自慰を含む勃起能力が完全に損われた、という書き方は好きでない。「御利生もいざりの立つははぜらしい(柳多留拾遺)」という、なまくらはぜになったとでも云っておこうか。
これらの症状に通底するのが貧血である。さまざまな理由が考えられるが、腎不全による血圧の急激な変動、シャントによる血液の逆流、それらにわたしの血管が耐えられず、血圧と血管の管理能力双方に狂いが生じたのであるまいか。
EDに関しては、かつて主治医と話し込んだことがある。透析の段階で勃起不能、射精不能になるケースが多いとか、もちろん結婚し子供を拵える透析患者もいて個体差は大きい。わたし自身は勃起しようが勃起しまいがそのようなことはどうでもよろしく、EDであるからと云って治療しようとは思わない。
もっとも、わたしの場合の治療は一重に造血となるだろうが、これは問題点が多すぎて実現は困難である。慢性の貧血患者が云うようなことでないが、体重から推してヘモグロビンが13g/dlを超えれば勃起するのかもしれない。世の中には極度の貧血で性欲旺盛な吸血鬼と呼ばれる一族もあって、こちらの個体差も大きいようである。
腎不全患者の場合、高血圧かつ糖尿病もしくは貧血のどちらかになるようだが、何年にも及ぶ貧血によって身体が徐々に馴染んでくる。ヘモグロビンが7g/dlから9g/dlぐらいなら平気で動き回るようである。その貧血の症状が現れやすいのは、酸素消費量の多い部位である。中枢神経(脳)、心筋、呼吸器(肺)、消化器(胃腸)、生殖器(卵巣)などがそれにあたる。わたしの場合は海綿体用の血液がまるで不足している。
腎臓の病とは血の病である。血を拵え濾過するのが腎臓の為事、それゆえ腎臓が毀れれば血も毀れる。今回、息が切れる、失神、EDが一直線に結びついただけでも、わたしには十分納得が行く。
腎不全は移植手術でお仕舞いではない。移植腎が十全に機能すれば健常者と変わらない生活が可能だが、拒絶反応や腎疾患の再発がある。さらに1度移植を受けると、例え移植腎が壊死し人工透析に戻っても、生涯免疫抑制剤を飲み続けなければならない。その免疫抑制剤には副作用や感染症に罹りやすくなるなどの致命的欠陥がある。拒否反応にばかり目が向けられがちだが、げに怖ろしきは感染症の増大。問題はそこにこそある。
追記
先般2人の歌舞伎役者が亡くなったが、免疫抑制剤による感染症(肺炎)が直接の死因だった。免疫抑制剤を服用する者にとって、1度罹った感染症が根治することはない、体内に残存し出番をしぶとく窺っている。
「トイレで昏倒、その後悶絶するような患者を帰すわけには行かない」と医師から云われたが、この失神はなんとかならないものか。96年に野戦病院からはじまった失神だが、すでに8年になる。この間半年に1回は襲われている。
東間、瀬戸口両医師が口を揃えて危険を指摘する。車の免許証に貧血や低血圧の条件はないが、もしあれば取得できないだろうと。車は捨て公共機関に切り替えなさい、と瀬戸口医師の持論である。
総合造血剤(あまりにも高価)による貧血の急速な回復が期待できないときは、対症療法としてしばしば輸血(極力輸血はしたくないし、するべきでない)が必要である。輸血だと十分な鉄分が補給される。しかし輸血で正常ヘモグロビン濃度まで回復させると、エリトロポエチン産生刺激がなくなって赤血球産生能は低下してしまう。よってヘモグロビン値で云うと10.5ぐらいで抑えるべきなのか。いずれにせよ、薬物療法を試みるべきなのは分かっているが、さまざまな副作用があって、この造血ほど難儀なものはない。
わが国のヘモグロビンの正常値は成人男性で14〜18g/dl、成人女性で12〜16g/dl とされる。国際的な貧血判定基準として、ヘモグロビンが幼児(6箇月〜6歳)11g/dl、小児(6〜14歳)12g/dl、成人男性13g/dl、成人女性12g/dl、妊婦11g/dl に達しないとき、とする基準が設けられている。
わたしは低いと7g/dl、よほど高いときで10g/dl、幼児以下で端から問題にならない。7g/dlを切るといつ失神してもおかしくないそうである。貧血でも低血圧でもどちらでもよいが、誰か失神から解放してくれないものか。
追記
短時間の一過性の意識消失。昏睡はもっとも高度の意識障害で、種々の反射機能の消亡、尿、便の失禁などを伴った意識の完全な消失を意味する。わたしの失神の特徴に痙攣がある、それから推してアダムス‐ストークス症候群かもしれない。理由は全くないが、癲癇なのかもしれない。
わたしの下血は大体1000ミリリットルから2000ミリリットルの間である。そしてわたしの血液量は4300ミリリットルから最大4800ミリリットル。その内、8パーセントは水分である。
輸血はすべて血液製剤。600ミリリットル以下の出血に対しては原則として無輸血とし、600ー1200ミリリットルの出血に対しては濃厚赤血球を、1200ミリリットルを超える場合にはじめて濃厚赤血球と全血を適宜併用する、となっている。なお、輸血の1単位とは140cc、わたしが今回輸血したのは計13単位だから1820ccになる。
今回の下血は、1日から13日間に亙って1500ミリリットル強の血が流れ出た。特に24日は1時間足らずで700ミリリットルを出血、見てる間に血圧が下がり、60を切って痙攣と失神に到った。書いてしまえばこのようになるが、下血は悍ましい。なぜかと云うに、自分が意志するとしないとにかかわらず、血は吹き出てくる。
トイレへ這入るなり、下血がはじまり、お襁褓を下ろす暇さえなかった。穿いているお襁褓の上部から血が溢れ出てくる。一瞬たじろぐ、どうしようかと考える。何等の旨意すらなく、脂汗が出、血圧が低下し続けているのが分かる。このままでは危ない、気を失うのでないだろうか。手に負える状態でなくなりつつある。看護師の手を借りようとトイレのナースコールを押す、と同時に第二波の下血、トイレが血の海と化す。
看護師が現状を把握、相棒を連れてストレッチャーと共に戻る。ストレッチャーを指して防水だから大丈夫、そのまま乗って、と大きな声。ストレッチャーを押して走りながら、Dr.コール、酸素、点滴、ベッドに防水などと適確な指示を出してゆく。
血塗れのわたしをベッドへ移し、看護師が2人がかりで拭き取ってくれるのだが、お襁褓を抜き、パジャマを抜き、尻の血は下半身全体に回っている。そんな中、わたしの掌についた血をきれいに拭き取ってくださるひとがいる。人間というもの、旨意や知覚がまったく関与できない時の情けなさはない。このような悃款が身に滲みるのはそうした時である。
運を天に任せるのは良いのだが、この場合、命をも任せることになる。早急に下血を止める、早急に輸血する、なんらかの手を打たないと死ぬ。ちなみに、循環血液量の約3分の1が失われると血圧が低下して出血性ショックに陥り、生命が脅かされる。2分の1以上失われると心停止をきたす。心停止とは即死を意味する。
(註 お世話になった看護師のお名前は「再度顛れる」で著した。深甚の謝意を表したく思う)
(註 これで直接入院に関する稿はお仕舞い。思い出すことがあれば、改めて著す)
10日、2日目の食事がはじまったが下血はなし。実は気が気でない、トイレへ行く度に便が赤くないかと冷や汗の連続である。もっかのところ、下痢気味。
頸の点滴ラインが外された。これで身体に取付けられたものはなくなり、いよいよ退院が近づいてきた。おそらく、汁粥が固粥に変わったときが退院、今週末か。
ところで、頸の点滴ラインは頸の皮膚に縫い付けられている。外すときは左右二箇所の糸を鋏で切る。
追記2
麻生セメントやトヨタの病院など、株式会社の医療機関は医療法以前に設立された病院のみ。1948年、医療法は医師法と共に制定。1950年、医療法人が導入。爾来、株式会社は病院経営に参入できなくなった。病院長は当然医師だが、本来経営に専念する理事長までが医師でなければならない。考えてみれば、妙な法律である。
海外へ進出したわが国の病院は他の国同様、ことごとくが株式会社。題して成金病院。理事長は経営のプロであって医師ではない。胃カメラや各種内視鏡などわが国固有の高度医療を誇るがゆえ、当然、金持ちしか相手にしない。貧乏人は病院へ這入ることすらできない。
追記3
11日、朝飯はシンプルで旨い。今日は3分粥と菠薐草(ほうれんそう)の煮浸し、煮浸しには縮緬少々と大根下ろし。メインは献立では炒煮となっているが、馬鈴薯3切れ、人参2切れ、鶏のミンチ少々の煮物である。野菜は2センチ角。香辛料は使っていないが、醤油と味醂のバランスが結構。定番の本物の牛乳が200ミリリットル。ゆっくり喰えば、これで腹が一杯になる。いくら病気とは云え、鼻の下のくちいが肝腎。
追記4
昼食は3分粥から5分粥に出世。全粥の半分の量だが、それでも随分と増えた気がする。シルバーサラダなるものがメニューに登場。春雨、ゆで卵のスクランブル、青葱の微塵切り、缶詰のミカンを混ぜたものにドレッシング。要は春雨サラダである。月並みなネーミングだが、それ以上は問わない。「春雨の柳は全体連歌也。田にし取烏は全く俳諧也」連歌と俳諧の本質的な違いを述べた芭蕉の言葉。
追記5
溜っていた小腸の空気が抜け、調子が戻ってきたようである。はじめて細いが固形の便が出た。繰り返すが24日ぶりの固形の便、色艶申し分なし。この項書いていてすこぶる嬉しい。この調子で頭の回転も戻って欲しいものである。
瀬戸口医師来室、何事もなければ週末に退院との許可下りる。今週の金曜日で37日間の入院。看護師から祝辞を受ける。取敢えず、喜んでおくとしよう。固形の便は嬉しいが、退院の方は心中は複雑である。
追記6
12日、体重は61キログラム未満で推移。ちなみに、今朝は60.25キログラム。今のところリバウンドはない。それにしても、食べはじめると結構ひもじさを感じる。なんとかドライウェイトを62キログラムに抑えたいと思っている。1箇月間守ることができれば大丈夫なのだが。
追記7
入院以来はじめての外出、駅を往復した。距離は500メートルほどなのだが、一気に歩かれたためしがなかった。ところが今日は歩かれる、ヘモグロビンが少しでも上がったせいと思われる。駅中のスーパーでもみ海苔(きざみ海苔は高価なので)とふりかけを購入、残りの日の粥を少しでも贅沢にと。
医師から態態しくことごとしく外食を禁止された、パリエットを飲んでいてそれはないでしょう(実は内緒でクロワッサンを2個購う)。途次、スーパーで大きな鏡と出会す。確かに腹はへこんだが、もう少し瘠せてもよいと思う。見た目には57、8キログラムが理想型かもしれない。「夏痩によしと云物そ鰻取り食せ」生きていれば、夏が過ぎるころには瘠せましょう。
追記8
昼食は5分粥から7分粥に出世。愕くべきはごく僅かだが塩が這入っている。どんなに微量であっても塩は分かる、そういう生活をしてきたからである。そして惣菜が一品増えている。いままでお浸しか煮浸しか酢の物か和え物、もしくは炒煮か煮物かサラダといった2品だった。そこへゆで卵のエッググラタンなどというバタ臭いものが突然乱入してきた。もっとも、かかる乱入は歓迎である。
この調子だと、13日が全粥、14日が易消化食、15日が普通食で16日午前に退院となりそうである。
追記9
13日、便通は日々滞りなく。7分粥は同じだが、昨夜から心臓・高血圧食に変わった。これは易消化食とほぼ同じ内容で、過去にも何度か食べている。
菜はシーチキン和、煮付け、味噌汁の3点。菠薐草のお浸しと思って食べていたが、最後の一口にツナが引っかかった。ところでシーチキンは商標名でなかったか。煮付けは5箇の焼麩。麩を莫迦にしてはいけない。焼麩は串に刺して茶請として使われたし、生麩は懐石料理や精進料理にかかせぬ食材。また麩饅頭は京都の名菓の一つである。それにしても、いささか貧相な食事。段々と口が肥え、図々しくなってくる。
12日から心臓・高血圧食に変わったと書いた。爾来、夕飯には魚の切り身がつく。背の青い、陸でもない魚ばかりだが、一応は魚である。味噌漬けが続くのは臭み取りに苦労している証。添えられる野菜は、なぜか茹ですぎの隠元豆。
追記10
昼食はやはり全粥だが、量が1割強減った。元々の献立はとろろ蕎麦、わたしは口内炎だったので麺類禁止になっている。もっとも、ここの麺は御免被りたい。
このところ、木の葉丼と蒲鉾、嘗物の梅びしお、饅について、てんぷら、衣揚げ、駄菓子屋と食べ物に関する別稿が続いている。腹が減っているのかしら。そのうち掲載する。
瀬戸口医師がリバウンドに注意、と。退院が15日の金曜日に決まった。何事もないことを祈る。
追記11
14日、朝飯のメーンディッシュが正油和と名付けたサラダ、マヨネーズしょうゆで和えたもの。具材はブロッコリー、玉葱、人参。サラダがメーンとは個性的、サブに豆腐のつくねの餡かけを5箇、焼麩の煮付けよりは幾分料理らしい。何時ものことながら簡略で結構。
飯は最後まで全粥。2月1日以降、拙宅、病院共に粥で通したことになる。5日の誕生日も1食のみ、100グラムの粥にぱらぱらと振られた海苔が唯一の菜だった。明日の夕食には握り鮨を食べたい。
追記12
前項の正油和について。醤油のルーツは醤(ひしお)である。「しょうゆ」という語は15世紀ごろから用例が現れる。漢字表記の「醤油」は和製漢語で、「多聞院日記(1568年)」に初めて登場する。醤の漢字が常用漢字に含まれていないことから、当て字に正を用いて正油と書くこともある。西日本では遣わないが、甲信越、関東、東北、北海道では正油を屡々用いる。いくら正油漬や正油ラーメンは北海道や東京に多い。
歴史的仮名遣では「しやうゆ」と書くのが正しい。ただし「せうゆ」という仮名遣も、いわゆる許容仮名遣として広く行われていた。したじ、むらさきとの別称もある。
病院では他にブロッコリーの胡麻酢しょうゆ和え、菠薐草(ほうれんそう)の辛子しょうゆ和え、トマトとオクラのしょうゆ和えなどが出された。
追記13
わたしは麺麭好きである。麺麭食の残渣が多いとは思わないが、ただ、ぱさつくのは気になる。あれが潰瘍と擦れないかと気を揉んでいる。気を揉むくらいなら食べなければよいのだが。さて、どうしようか。
水1リッターよりもごく僅かな胃液の方が遙かに強力と聞いた。心配はなさそうである。
追記14
2月7日の昏倒の折、面倒をかけた外来病棟へ退院の挨拶にゆく。「いやだあ、まだ居たの」「入院してないで、こちらへいらっしゃい」と云われる。24日の輸血のはなしなどする、「それにしちゃあ、いい笑顔をしてる」。こちらは気が置けないスタッフばかり。
入院病棟にも気が置けない看護師がいらっしゃる、このところの3度の入院で欠かさずに面倒をかけた群馬出身の高橋里奈さんである。お名前を記して感謝の証とする。
追記15
入院最後の血液検査、クレアチニンは1.62、ヘモグロビンは10.0。共に現時点ではまずまずの結果、クレアチニンが下がった理由は体重の減少。よって最低でも現在の体重60キログラムを維持するように云われる。しかし、これらの数値は血圧と同じで日々異動する。どうでも良きことながら、ほぼ4年ぶりに朝立ち(にわか雨ではない)した。
3日前から腰痛に苦しんでいるが、医師にも看護師にも内緒にしている。そのようなことで退院の取り消しは困るからである。
「再度顛れる」の末尾で「理由が分からないままに下血が止まり、身体も落ち着いて退院、数年後に再発というのがもっとも困るパターン」と書いたが、どうやら、予想した通りの状況に嵌まったようである。「退院の方は心中は複雑」と著した理由である。
追記16
体調悪しく、1月30日から風呂に這入っていない。2月1日からはじまった下血はますますわたしから風呂を遠ざけた。今日は3月15日、この間、3度のシャワーを浴びたのみで、風呂には1度も這入っていない。這入っていないではなく、禁止されていた。しかも、右手をかかげてのシャワーで、ほとんど身体を洗えなかった。今日午後はどうあっても拙宅の風呂に這入りたい。温度を1度高めに設定し、暫くは湯船から出ないつもり。その間に溜まった洗濯物を片付けなければ。
追記17
最終日。入院中、ずっと聴いてきたラジオ放送が退院で中断される。毎日もしくは一日置きで福島原発に関する放送を続けていた。抽象化は一切行わず、どこやらの商店主、あるいはどこやらの仮設のおばちゃんなど、登場人物は自由に語る、「東北へ行こう」とのキャンペーンと相俟ってすこぶる具体的だった。その具体は具体で結構、一方で文学に於ける抽象化の試みも大切である。
意味あるいは判断は経験より抽象された一部であって、事物や表象を抽象しようとすれば、抽象と捨象という二側面を必ずや形づくる。その抽象と捨象という弁証にこそ、思考それ自体の蠢きがある。
対象が天災であれ、人災であれ、事象は抽象されねばならない。抽象されない災害は早晩記憶から消し去られる。869年(貞観11)、1611年(慶長16)、1677年(延宝5)、1896年(明治29)、1933年(昭和8)、2011年と津波を伴う大地震が三陸沖を常襲している。わたしたちが忘れてはならないのは具体としての災害ではない、抽象という言葉と概念そのものの再検討の場を通過してきた災害なのである。
追記18
次回の外来は21日、木曜日。採血、採尿は8時30分。
入院以来、免疫抑制剤以外の薬はことごとく中断し、パリエットだけになった。パリエットは維持療法の薬で、胃酸の分泌を抑え、胃や十二指腸の潰瘍や食道の炎症を改善する。似た薬にレバミピドやアルロイドGがある。
それと入院中は服用していないが、退院後はバクタ配合錠が再度出るそうな。細菌など病原微生物(細菌、ウイルス、真菌(カビ)、原虫)及びそれらがもたらす感染症に有効。真菌のなかでも特にニューモシスチスに有効。ニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎)は、いわゆる日和見感染症のひとつ。免疫抑制療法で抵抗力が落ちている人が感染すると厄介。治療がすこぶる困難、命にかかわる。
免疫療法を受けている患者のなかで死亡率がもっとも高いのが、ニューモシスチス肺炎。新聞などでは単に肺炎とのみ記載される。
少し似た働きを持つ薬に、バリキサ、フリードゲルなどがある。
免疫抑制剤を飲み忘れたときの注意。次の服用まで5時間以上あける、2回分の服用は不可。グレープフルーツや一部の柑橘類を禁止。グレープフルーツジュースやライムが一部這入ったオレンジジュースが売り出されているが、当然禁止。セイヨウオトギリソウ(セント・ジョーンズワート)を含む鬱病の薬もしくは健康食品の禁止。
消化器内科の羽山医師來室、8日の小腸内視鏡検査の詳細が決まった。午後下剤を飲み(実は前日の夜)、17時から18時半まで(結局19時から2時間)。まずは肛門から、次の日に口から挿入する。これはグラスファイバーの長さが短いため、上下から半分ずつ検査する。肛門側が先になった理由は、大腸に近い部分の方が潰瘍の可能性が高いため。機器は3月13日まで拝借しているものの、数箇所ある腸の狭窄(特に大腸と小腸の繋ぎ目の狭窄がひどい)によって全小腸観察の可能性は低いとのこと。
内視鏡は筒自体が二重構造になり、先に風船の膨らみあり、細い方の管が直径10ミリ(通常の内視鏡は11ミリ)。細い方が2、3センチ先行し、太い方が後を追う。要するに、全体が腸の形態に合わせて匍匐前進する。検査に伴うリスクは穿孔と出血。
大腸中央部にも新たなサイトメガロウィルスの潰瘍痕あり、ただし陰性。なお、血液検査も現在は陰性になっている。デノシンが効いたものと思われる。下血は止まっているので、検査が終わる土曜日もしくは日曜日から食事ができそう(期待はしていないが)。
思っていたとおり、小腸、大腸のサイトメガロウィルス腸炎ならびに潰瘍は腎不全同様、持病として長く付き合って行くしかなさそう。
追記2
7日、今朝の血液検査には新しくクォンティフェロンという結核菌感染の診断が加わっている。いつもは5本なのだが、今日は8本の採血。この前の胃液採取(泌尿器科のオーダー)の結果は陰性と聞いていたのだが、訊けば羽山医師のオーダーだとか。
胃液採取はチューブを鼻の穴から胃へ45センチから50センチ入れ、注射器で吸い取る。そのチューブをマーゲンチューブ(Maチューブ)と云う。簡単だし、痛みも伴わない。ただし、気持ちが悪い。病院にはこの種の検査が多い、胃カメラや内視鏡も少し似ている。
追記3
2月26日に腕の点滴ラインが外された。「腕全体が浮腫で腫れ上がっている」と書いたが、3月7日にやっと腫れが引いた。9日目である。不思議なことに、今頃血管が僅かに浮いてきて穿刺し易くなった。
免疫抑制剤について。グラセプターは血中濃度を見ながら5.5ミリグラムから3ミリグラムへ減らした。問題はセルセプトで、入院以来250ミリグラムと普段の半分の量に止めている。サイトメガロ腸炎からの出血を防ぐためである。ただし、セルセプトを減らした分、身体の免疫抵抗が高まり、クレアチニンが2.32と高止まりしている。早く元の量に戻したいのだが、下血がないことを確認しなければどうにもならない。
追記4
8日、長い禁食ゆえ下剤の要はないのだが、飲まざるを得ない。内視鏡前段のセレモニーである。大腸の内視鏡検査に鎮静剤も鎮痛剤もなにもいらないという医師ははじめて。薬剤を使わざるを得ない医師の腕の未熟さ、過去の内視鏡検査はなんだったのだろう。
下剤のせいで腹が痛い。トイレで息むと下血を思い出して血の臭いに噎せ返る。それにしても、24日のあの非常時にどうして輸血用血液がタイミングよく出てきたのか。瀬戸口医師が必要と思って事前に用意していたのか。赤血球製剤の有効保存期間は21日、通常は需要が生じてから血液バンクへ発注する。間に合わないときに病院間で融通為合うようなシステムは当然あるだろうが。あの血液がなければ確実に死んでいた。
追記5
東間医師から貧血と低血圧とがまったくの別物と聞く。従って、貧血と低血圧についての過去の記述には混乱がある。ちなみに、わたしは貧血。東間医師と自転車については再度別項を設ける。
追記6
9日。昨夜の検査について。簡単な鎮静剤と聞いていたが、いきなり酸素マスクで点滴の管になにかを注入、施術の前後は覚えているもののあとは前後不覚。術後、ストレッチャーで病室へ戻り、朝の4時までぐっすりと眠った。小用で起きたが、1時間を経たいまも頭も足下もふらふらする。あんな鎮静剤があるものか。(看護師に訊くと、やはり静脈に打ったのは強力な麻酔剤だそうである。術後、一時覚ます薬を打ったので記憶が残っている筈とか)。
羽山医師と羽田医師、東京医大の医師だろうかあと一人、それとレントゲン技師と看護師、羽山医師の助手の看護師、以上が施術に当たった方。著しく断片的だが、痛みの合図のつもりで右手を盛んに振っていたことしか記憶にない。小腸内視鏡がいつ挿入され、いつ取り出されたのか、それすら記憶にない。
手術中はずっとレントゲンは作動中、小腸を透視しながらの内視鏡だが、動く臓器だけに検査しにくく、小腸の狭窄がひどくて深くは這入らなかったようである。潰瘍は大腸から20センチの箇所。要するに大腸内視鏡で見える範囲と変わるものでなかった。折角の機械だが、最新の機能は発揮できなかったようである。下血が止まっていることのみ視認。
小腸も大腸同様、粘膜および粘膜下組織にびまん性炎症、糜爛、潰瘍形成などをきたす疾患。多くは慢性に経過し、悪化と軽快を繰り返し、下血、粘液血便、腹痛、下痢などが現れ、屡々癌化する。原因は不明。
いずれにせよ、土曜日の追加の検査はなくなり、朝から食事が当たるとか。所要時間は2時間を軽く超えたと聞かされたが、如何せん記憶がなければどうにもならない。ただ術後、24日に羽田圭佑医師のおかげで命長らえたと、感謝の意を尽して伝えた。
追記7
朝の6時30分に瀬戸口医師が病室を訪ねてくださった。昨日の内視鏡検査の結果を聞きにである。点滴を取り払い、「よかったね、まずは朝飯、退院に向けての準備に這入りましょう、本当によかった」と、嬉しい言葉をかけてくださる。彼への感謝は言葉にならない。
追記8
羽田医師に命を救われた、と書いた。同じく、主治医の山崎医師にも感謝しなければならない。往事、21単位の輸血をしたことは何度も書いているが、量にして2940cc、体内の血液の6割に近い。医学的には確実に死んでいたはずだし、山崎医師はわたしの死を予測し、家人にその旨を伝えている。
あの時、立っておられず足下から崩れ落ちる、崩れるということは括約筋は用をなさず、糞尿は垂れ流しになる、わたしは何という人間だろうかと発奮(脱糞ではない)させようとするのだが、気力が付いてこない、付いてこないではなく、気根や気魄といったもの自体が消え失せてしまっている。
特に糞尿垂れ流しのインパクトは大きかった。あのとき、生きてあることの含羞(はじらい)をわたしは知った。重い病の人にとっては細やかなことかもしれない、しかし、死と寄り添うのはわたしにとってはじめての経験であり、全身を貫く衝撃だった。病室の隅で、看護師の目を逃れて、何度涙したことか。
追記9
隣にICUからまたひとり、下腹からパイプが2本出ている、排出用の管である。看護師がこれから生涯使うパイプですから大事にしてください、と説明している。直腸と排泄腔の除去だが、病名はなんだろうか。人のことを気にしてもはじまらないが、大層な病気であるに違いない。
わたしは喧しいのはまったく気にならないが、一晩中痛みに堪えられなくて呻っている。ただし、酸素吸入器を使用しているので、なにを云っているのか分からない。「喉が渇いた」「腹減った」はなんとか理解できたが、当病院のICUは手術当日を入れて基本3日である。開腹手術の場合、一般病棟へ移って1週間やそこらで食欲なんぞ湧くはずがない。おそらく聞き違いだろう。
やはり、彼は当分禁飲、禁食だった。逆の立場だったら平気なのだが、いくらなんでもその横で飯は食べられない。部屋の引っ越しを申し出た。彼は今日から車椅子に乗る練習がはじまるようである。頑張っていただきたい(結局、練習は先送りになった)。わたしが寝ていたベッドには、もうひとりの重症患者が這入った。共に酸素ボンベを抱えている。
さらに、1402号室から1414号室へ、引っ越した先にも禁食の患者がいた。なんともはや。
追記10
9日。白湯が200グラム、飯が50グラムの粥、当病院では3分粥という。米でなく飯というのが面白い、それが小さな茶碗の底に3センチほど。申し訳なさそうな高野豆腐が3切れと甘藍の味噌汁、嘗物(なめもの)の梅びしお、それになんと本物の牛乳が付いている。21日、計23日つづいた禁食のあとの朝飯である。
好物の高野豆腐を口に含む、このような贅沢なものを食べて良いのだろうか、としみじみ思う。この日の3食を完食して体重は61.45キログラム、食い過ぎである。梅びしおについては別項を設ける。
全粥は米と水を重量比で1:5にして炊いたもの、7分粥は1:7、3分粥は1:15の割合である。重湯は米1に水10の割合で煮て汁だけを濾し取ったもの、おまじりは全粥1に重湯9の割合にしたもの。
(註。辞書によって米と水の比率はてんでんばらばら。どう考えても出鱈目と思われる語釈が多かったが、ひとつだけ正確な語釈があったので引用する。なお、古くは蒸したもの飯(いい)に水を入れて炊いたものを粥といった)
追記11
即刻、セルセプトが500ミリグラムに戻った。すこしでもクレアチニンを落とさなければ。
タクロリムスが下がりすぎたので、グラセプターを3.0ミリグラムから4.5ミリグラムへ上げる。メドロールも4ミリグラムから6ミリグラムヘ上げる。免疫抑制剤以外の薬も復活、維持療法のパリエット、降圧剤のオルメテックとアテレック、尿酸のユリノーム、カリニ肺炎のバクタ等である。このうち、アテレックはめまいが起きるので車の運転には注意。
クレアチニンが微妙に下がって1.51。ヘモグロビンが11.0へ上がったが、入院中は7.0を切って6.0前後を迂路迂路していた。それが理由で2回も昏倒。11.0は私には未経験の数値、過去10.5が最高。ひょっとすれば、ED(別項で後日掲げる)がEHになるかも。
今日は羽田圭佑医師の診察を受ける。久しぶりの外来、看護師や事務員のみなさんが貧血を心配してくださる。2月7日に現場にいなかった方までがわたしの失神ぶりを詳しく知っている。尻丸出しでの昏倒、どなたがパンツを穿かせてくださったのか、記憶がないので羞ずかしくもないのだが。
今週の小腸内視鏡だが鉗子止めで出血が収まれば良いのだが、もしも小腸の摘出となれば大事になる。小腸と血管が癒着している場合がそれにあたるが、内視鏡や腹腔鏡で小腸の除去手術はできない。当然、開腹手術となる、それだけは避けたいのだが。
内視鏡(ファイバースコープ)の概略を。東京大学の宇治達郎がオリンパス光学の杉浦睦夫、深海正治らの協力を得、50年に胃のなかに挿入して撮影できる小さな写真機を発明し胃カメラと名づけた。その発想に光ファイバーの技術を加えて内視鏡が完成する。現在では内視鏡を用いた診断技術、器具の製造共に日本が世界をリードする。
内視鏡で調べることができるのは食道、胃、小腸、大腸、喉頭、気管、気管支、鼻腔、副鼻腔、尿道、膀胱、腟、胸腔、腹腔、胆管、関節腔などである。「百聞一見に如かず」のごとく、直接視認できるのが最大の強み。さらに必要に応じて生検や細胞診によって顕微鏡レベルでの診断ができること。
今回の小腸検査だが詳細はわたしには分からない。なにしろ小腸は5メートルもある。内視鏡を口から入れるのか肛門から入れるのかそれすら知らない。パソコンに這入っている医学書では「十二指腸以外の小腸は長さが2メートル前後あるファイバースコープを口から挿入して検査」とあるが、2メートルではどうにもなるまい。単純計算でも7メートルは必要、第一に大腸用の内視鏡でも2メートルは優に超える。瀬戸口医師は内視鏡による前立腺癌の除去手術を行っているが、小腸は専門外で全くご存じないようである(小腸の内視鏡は口と肛門の両方から半分ずつ挿入する)。
序でだから書いておく。日々服用している免疫抑制剤のなかには保険非対応のものがある。対応していない薬が一品でも這入っていると、保険対応の薬を含めてすべての薬と診察に保険が効かなくなる。すなわち全額自己負担となってとんでもない金額を支払わさせられる。この消息が自由診療と混合診療の関係である。
TPP(環太平洋連携協定)に関して「医療保険の自由化、混合診療の解禁により、国保制度の圧迫や医療格差が広がる」と危惧されているが、混合診療を法律で禁止することによって、難病に苦しむもしくは免疫療法を必要とする国民は多大な金銭的犠牲を払わされている。
免疫療法の大方は現在自由診療である。わたしのようなプロレタリアートは例えそれが命にかかわることであっても、金額によって自由診療を受けるか受けないかを決めている。従って、医療格差があるのは日常であり、当然と思っている。と云うよりは、国民健康保険のシステムそれ自体がとんでもない医療格差を作っているのである。
国民健康保険の矛盾点について一言。先進医療(平成17年7月現在で、承認された高度先進医療は111種類)は保険診療との併用が認められていて、診察、検査、投薬、入院料は健康保険の給付対象となる。ただし、先進医療の特別料金部分(技術料)は健康保険の給付対象外となるため、全額自己負担となる。これは例外的に保険治療と保険外治療を併用する混合診療である。要するに、世の中には保健医療が認めている混合診療もある。ご都合主義とはこのことであるまいか。
わが国の国民健康保険のどうにもならない矛盾点については、これまで何度も具体的な例をあげて書いてきた。何もかもが既得権で雁字搦めに縛られている。国民皆保険を名告っているものの実体は国民不在保険である。どうあっても自由化もしくは徹底した規制緩和が必要である。もっとも、この規制緩和とやら、外圧なしで緩和されたためしがない。
大宮の医科歯科大学か新宿の東京医大のどちらかと聞いていたが、新宿に決まったようである。転院ではなく、こちらが出掛けて行って小腸内視鏡を撮るとの方法になる。往き来の交通機関はもっか医師が思案中とか。ちなみに、女子医と共に東京医大も戸田中央の関連病院。
瀬戸口医師がわたしを極力手元に置きたがっているのは、医療費の支払いを考慮しているのでないだろうか。戸田中央の泌尿器科のみ更生医療が有効だからである。国民健康保険による更生医療の対象はひとつの病院ひとつの科目に限られる。
転院はおろか、同じ病院でも消化器内科だと更生医療の対象外になる。すなわち、腎不全ならびに腎移植に伴う免疫抑制剤のみが更生医療の対象で、免疫抑制剤の服用による感染症は更生医療では面倒をみてくれない。ところが、いかなる科目の診断であれ、治療であれ、泌尿器科を窓口にすると更生医療の対象に化ける(化けるのであって、それが法的にどういう扱いになるのかは分からない)。
入院費用は更生医療とは別計算になる。入院が2箇月に及ぶため、食費や保険外負担金(お襁褓代など)を加算するとかなりの金額になる。
腰痛で本日の外来を延期。こういうことははじめてである。腹痛なし、下血なし、体温は36.6度、血圧は退院後降圧剤を飲んでいなかったので180から190。即刻オルメテックを服用する。
病院へ電話したところ、どのような手段を使ってでも来院すべき、と一言。些かおかんむりである。長期入院のあとだけに当然である。来週のつもりだったが、無理をしてでも金曜日に出掛けよう。
瀬戸口医師は遅刻しないし休まない、入院患者が倒れれば、何時であろうが駈けつける。酒は飲むが、2箇月に一度、非常呼集のかからない確実に安全な日を選んで飲む。医師は半端な意志力で務まる職業でない。患者も心しないといけないのは分かっている。もっか反省中である。
降圧剤を飲んで5時間で140-80、畏るべし。
2月25日、明石より日帰りで女房来たる。手伝いを得て念願の散髪ができた。ただし、頸に点滴ラインを拵えたため、入院中の風呂は諦めざるを得ない。寒い季節だからまだしも、一箇月も二箇月も風呂に這入らないとどうなるのだろうか。
彼女は医師から病状、特に小腸の下血の状態について説明を受けていたが、「これから原因究明です」に終始していた。感染症なら癒らないが、感染症かどうかすら定かならず。移植手術以前から続いている下血ゆえ、わたしは感染症でないと睨んでいる。もっとも、下血の理由がひとつとは限らないが。
追記2
26日、禁飲が解除、この日からA-4病棟内に限って散歩を黙認される。今日はあまり元気がない、ひどく疲れている。身体を拭く元気すらない、このようなことははじめてか。
頸の点滴ラインが稼働、腕のラインが2本とも外された。37箇所ほどの穿刺の傷跡があって、腕全体が浮腫で腫れ上がっている。元へ戻るのに一週間は掛かりそう。でも、これで血液検査の穿刺が容易になる。
ハイカリックNC-L輸液(480カロリーのビタミン入り栄養剤)、イントラリボス(脂肪乳剤)、これらははじめての点滴である。イントラリボスは牛乳のような脂肪液で、茶と水以外、特に牛乳は飲むなと云われているが、点滴ならかまわないらしい。成人男子の基礎代謝量は一日1500カロリーだが、点滴だとこの480カロリーが上限。大体、血管からの栄養なんぞ、効果があるのかしら。
追記3
大きなお襁褓が外れ、小さなパンツ型のお襁褓になった。これで用が足しやすくなる。大小便共に極力自力で用を足したい。
前述の小腸用内視鏡の貸し出しに一週間ほど掛かることになった。そこで大学病院へ転院するのが一案。主治医を消化器内科の羽山医師へ変えて小腸の内視鏡を待つのが一案。羽山医師によると、兎にも角にも小腸を見てみないとなにひとつ判断できないとのこと。仮に主治医変更の場合、免疫抑制剤を服用する患者はA棟4Fに限られているので病室はそのまま。いずれにせよ、医師同士の折衝なので詳細は分からない。
追記4
27日朝、わたしに出来ることは栄養を付けることだけ。けれども、点滴の栄養のみ。現在の点滴は一日7本計500ミリリットル(主としてデノシン、抗生物質、止血剤)とハイカリック700ミリリットル(1本24時間の点滴)。
追記5
28日、病院内は自由に歩かれれるようになる。3日間検査もなにもなし。禁食にも慣れてきた、とは云え、たまに甜い饅頭、特に金鍔を食べたくなる。
神戸の金鍔は方形に決まっていたが、都々逸でうたわれた吉原の「土手の金鍔」は円形、表面に2本の指でくぼみをつけて刀の鍔に似せた。商品名を思い出さないが、金鍔とはまったく違う饅頭で刀の鍔に似せたものがあった。1本と2本の指でくぼみをつけた二種類有って、小麦粉の薄い水溶きではなく、普通の厚みの皮だった。それにしても円形の金鍔など、焼きにくいことこの上なし。
追記6
3月1日、入院はいつまでつづくのか。先月は7日に入院して15日間の禁食と4日間の禁飲。もっか5日間下血なし。よって止血剤を中止、点滴は1日5本に。
27日に体重が60.8キログラムに減り、今日59.9キログラムになった。60キログラムを切るのが存外早かった。下腹はぺちゃんこ、念願の55キログラムも夢でなくなってきた。
追記7
じっとしてれば腹が減る、さりとて動けばよけい腹が減る。ラクトアイスは乳脂肪は這入っていないし、乳固形分も3.0パーセントと低い。謂わば贋作アイスクリームだが、これなら食してもよいのでなかろうかと考える。冷たいものなど食べられるわけがないのだが、食い物の妄想である。禁食中でも食べられるものはないだろうか、茶が良いのなら具のないスープや味噌汁もよかろうに、と莫迦なことを思案する。
思案だけでなく、売店へ調査にゆくも、具沢山のカップスープしか置いていない。聞くとクラムチャウダーが一番人気とか。クラムチャウダーほど種類の多いスープはあるまいに、分かっているのかしらと一抹の疑念。わたしが欲しいのは安物の低残渣のスープ、クノールの袋入りスープにそのような商品があったような気がする。
禁食の目的は消化液(唾液、胃液、膵液、胆汁、腸液など)の抑制、本当は一粒のキャラメルすら食べられない。
追記8
3日の日曜日、死にかけてから一週間経った。昨日、瀬戸口医師から改めて「良かったねえ、命拾いしたね」と。この間下血の気配なし。
追記9
嬉しいことに看護師が付き添いで風呂に這入ろうか、と。看護師の付き添いが嬉しいのではない、嬉しいのは風呂に這入られることである。頸に点滴ラインを拵えたので諦めていたが(ラインが風呂禁止の理由でないらしい)、点滴は30分間止めればよいとか。風呂と云ってもわたしが這入れるのはシャワーのみ。
頸筋のラインの防水がちょいと大変だが、腕のラインは既にない。腕さえ自由に使えれば、何とかなりそうである。慎重にとの条件付きだが、頸を除けば髪も洗える。何日ぶりだろうか、垢がぼろぼろ涙もぼろぼろ出るに違いない。
看護師が一言、爽やかになったわね。本人が一言、瘠せたわね。
自分を鏡に写して老いた親父の身体を思い出した。そっくりだなあ、と。
追記10
4日、よもや下血はあるまいと思うが、禁食は19日になる。
二転三転したが、小腸内視鏡検査機器は東京医大から戸田中央へ持ち込むことになった。検査の日付は8日の金曜日。何事もなければ土曜日からでも食事再開となるらしい。しかし、「何事もなければ」の意味がまったく分からない。小腸に異変がなければあれだけの下血はしないだろう。自然快癒などあろう筈がない。
追記11
足穂の云うAO虚空をこれほど意識させられたことはない。一回の入院で二度も内視鏡を入れられたのははじめて、糅てて加えて三度目の小腸の内視鏡が加わる。以前、尿管バイパスを拵えるときは後ろから前からだったが、今回はまさに「循環端なきが如し」、上から下からどうぞ、である。
ところで、内視鏡を先っぽから尿管へ突っ込まれたとき、麻酔をしているにもかかわらず、ぎゃあと云ったのを覚えている。腎臓まで届いていたが、痛いなんてものじゃなかった。尿管結石でも飛び上がる痛さなのに、さらに太いものを突っ込まれて痛くないわけがなかろう。あの時は「はぜ(陰茎のこと)」が破壊されたと思った。
それにしても、あれは何のためのバイパスだったのか。いまだに必然性がさっぱり分からない。
追記12
5日。待ち惚けを食らっていた内視鏡が来るのは嬉しい。なんでも良いが、退院したい(退院するつもりだから困ってしまう)。自炊がしたい。取敢えず、退院の日はカツ丼を拵えたい(冗談)。カツ丼は味が濃すぎて外では食べられない。やはり、拙宅の白出汁で造った、ほとんど醤油味のしないカツ丼でなければならない(死ぬの生きるのと云っていた人間が書くようなことか)。
追記13
繰り返すが、低残渣米は最悪の米、しかし旨かったというのが本音。粥ばかりだったが、滅多に与えられないとどのような食事でも旨く感じる。それほどに、入院中はほとんど食事をしていない。
低残渣食については退院後、勉強する予定(要は植物繊維)だが、拙宅の近所で低残渣米は売っていない。
追記14
6日。移植前の検査入院は二週間、移植手術は予定通り三週間で退院した。10月の拒絶反応は三週間、前回は2日(この入院は抹消した)、今回は本日で一箇月になった。検査入院は運良く去年の扱いになる。国民健康保険の規定で、ひとつの世帯で高額医療費の支給が一年間に4回を超える場合の4回目以降は限度額が減額される。末期癌の人は年間三度の入院で済まないだろう、自己負担が増えるのだろうか。
今回はおそらく来週には退院できる、曜日までは分からないが。新幹線の車両のように長い入院だった。
(註 追記を屡々遣いますが、意味なく遣っております。どうかよろしく)
2月24日は大変な一日だった。午前3時過ぎ、トイレへゆくが、一挙に200cc近い下血、お襁褓の上端を越えて血が溢れてくる。便器に座り込んだまま動かれなくなる。そのままの状態でストレッチャーに乗り、ナースセンターの診察室へ運ばれる。意識はあるが脂汗と軽い痙攣。同じ病院で立て続けに昏倒するとは。
泌尿器科の当直の羽田医師が呼ばれ、消化器内科の医師も集まる。10分置きに吹き出す鮮血、医師によると約700cc。医師が同時に輸血(念の為に書いておくが、輸血は臓器移植の基本、何度も輸血するのは身体によろしくない)をはじめるが、袋を絞るような塩梅での緊急輸血。「非常時」「非常時」と呟いている。3単位目からは通常の速度に変わり、8単位の輸血(16日の5単位と合わせて13単位)を済ませる。ところで、4単位目から7単位目までの輸血の記憶が一部脱落している。聞くところにとると血圧が60を切り、おそらくその度に昏睡していたものと思われる。
ところでこの間、ライン取りで医師は失敗を繰り返していた。そこで羽田医師は股の付け根の静脈から採血。正しい選択だし、それで良いのだが、結構痛みを伴う穿刺だった。
この間、わたしは半ば失神、半ば覚醒していた。突然痙攣を起こすので両手首はベッドへ固く縛りつけられた。失神のときの注意事項として頭を下げ肢を上げるのはわたしには禁物である。看護師は無視するが、医師が聞き届けるようにと一言。序でに右手はラインがあるので構わないが、左手は自由にしてくれと懇願。こちらも聞き入れられ、縛り方を若干弛くしていただく。失神するには失神するためのスタイルが必要なのである。
日曜日の早朝なるも、内視鏡で贔屓の羽山弥毅医師が駈け付けてくださり、下血箇所が大腸でなく小腸の奥だと判明。憩室でないことははっきりしたが、小腸の下血の理由がサイトメガロか、他に原因があるのかどうかは判然としない。要は感染症かどうかも分からない。内視鏡検査は7時半から8時過ぎまでかかった。抜き取るときに出血はほとんど止んでいた。なお、非番だった羽山医師の助手の看護師はバイクでご登場。その手の冷たかったこと、さぞかし心が暖かいに違いない。
大宮の病院に小腸の内視鏡があって貸し出しが可能かどうかの問い合わせ。この内視鏡には麻酔もしくは鎮静剤が必要とか。鎮静剤がいらないカプセル型の小腸内視鏡もあるが、カプセルが小腸内で思うように回転しない。要は傷口を確認できるかどうかは運任せ、また鉗子のような処理を施す小道具もついていない。なんの役にも立たないが、おそらく用途が異なるのであろう。
戸田中央では放射線による患部を特定した造影検査をはじめる。結核菌確認のため胃液採取。禁食が長期に及ぶため、頸に高栄養剤用(には限らないが)の点滴ラインを拵える、こちらは局所麻酔が必要。
医師によるとサイトメガロウィルス腸炎による小腸の摘出手術の経験があるらしい。小腸は人間の臓器ではもっとも悶着の少ない箇所、その代わりおかしくなると執拗いようである。そう云えば幼児の小腸出血を耳にしたことがある。ところで、血液と共に腸の粘膜と思しき肉片がたくさん剥がれ落ちていた。腸の粘膜は新陳代謝のもっとも激しい部位のひとつだそうである。
今回の下血ならびに発作が起きたのが、拙宅であれ屋外であれ間違いなく死んでいた。羽田圭佑医師が「非常時」と呟きながら対処してくださった熱意に感謝。病院内ならではの対応で、下血から輸血までおそらく15分足らずだった。今回もまた、命拾いをした。多くの医師、看護師、日曜日の早朝であるにもかかわらず、駈けつけてくださった瀬戸口医師にも感謝。
それにしても痼疾(しかも命にかかわる)とも云うべき下血の理由が定かでないとは。理由が分からないままに下血が止まり、身体も落ち着いて退院、数年後に再発というのがもっとも困るパターンである。
追記
トイレからストレッチャーで運んでくださった角田さんと話す。彼女は移植手術の際、ICUから一般病棟へ運んでくださった看護師でもある。長く看護師をしているが、あんなにひどい下血ははじめての経験だと。あそこまでではないにせよ、通常下血すると一種の錯乱状態もしくは認知症のようになって点滴の管などを抜くケースが多いとか。あなたは暴れるから縛り付けたと云っていたが、あれは暴力的な行為ではなく、いつもの痙攣である、と云っても分かって貰えそうにないが。
日曜日ゆえ、当直の看護師は3名、霜凍さんと北海道北見の松平さんに感謝。移植手術の折、松平さんには重なる迷惑をお掛けしている。わたしは将軍家の姫と渾名している。
31日 下血 37.0度 腹痛
01日 下血 37.6度 腹痛
02日 下血 37.5度 腹痛
03日 下血 37.3度 腹痛
04日 下血少量 37.3度 腹痛
05日 下血止む 37.3度 激しい腹痛
06日 37.3度 激しい腹痛
1月31日から2月4日まで拙宅で下血。病院へ到着したのは7日の8時、その時点で下血は止まっていた。一時間後の9時に下血による貧血で昏倒。よく分かったことは、下血初日にお襁褓をして、垂れ流しの状態ででも病院へ行くべき。それだけが今後助かる唯一の手立てである。
7、8日は完全看護の元に置かれ、禁飲、禁食。9日の昼食から粥が出たが、5日後の14日には再度下血で二進も三進も行かなくなった。
繰り返すが、初日ならどのような無理をしてでも病院へ行かれる。ただし、病院の駐車場が初日2000円、後は一日500円、一箇月17000円かかる。垂れ流しのお襁褓履きで電車に乗られるかどうかは疑問、おそらく援助がなければ階段の上り下りができないだろう。
今回ばかりは簡単に病院から出られないと覚悟した。外出はおろか、風呂へ這入ることも、売店へゆくこともできない。そこで、病気に関する記述を日誌仕立てで書き継ぐ。
追記2
2月14日15時50分、再度下血。今までの下血とは傾向が異なるような気がする。深夜より点滴再開、15日10時の段階でデノシン(サイトメガロウィルスの薬、1日2本)や抗生物質を含む8本の点滴。入院時の状態に逆戻り。免疫抑制剤を限界まで落とし、その間に憩室からの出血を治す予定。
9日から出ていた粥が停止、14日夕から取り敢えず17日まで禁食。Hb(ヘモグロビン)が6.8、来週には輸血の予定。それにしても、透析時と違い、今はドナーの腎臓が生きている。それで造血されないとは。
追記3
16日3時、6時ふたたび下血、血量いささか多く、下腹痛し。退院は愈遠のく。今回の下血でさらにヘモグロビン値が下がる。いつ失神してもおかしくない状態、持って行かれないように全神経を集中、気の張りを弛めたらおしまい。
追記4
穿刺に自信のある看護師が輸血ラインを拵えに来る。血管はさらに硬化していて、傷跡だらけで刺す場所がない。最初に来てくれれば良かったのにと思う。一度目は失敗、二度目に成功。取敢えず5単位を16日午後から緊急輸血。栄養剤、デノシン、止血剤、抗生物質など多数を平行して点滴。禁食の間、点滴は24時間間断なく続く。
血液検査の針は細いのでどこへでも穿刺可能。左手の血管は基本的に動脈である。ただし、シャント箇所は手首、そこより先は静脈なので問題ない。そこで左手の甲の血管を用いることを提案、3本の血管を遠慮なくぶすぶす刺していただく。看護師は大喜びだった。
追記5
輸血によってヘモグロビンが8.8まで好転、しかし予測より低いのは下血分か。
17日午前3時下血。どうやら本格的な憩室下血がはじまったようである。輸血しながらの下血ゆえ、安心と云えば安心だが。禁食期間は下血終了後プラス3日の日数で順延。
追記6
18日、やはり下血。
これだけ禁食が長引けば体重への影響大。moonさんによると、神戸のインド人は部族(宗派)によって一週間から一箇月の断食期間があるそうな。時間はたっぷりある、その一箇月に挑戦してみようか。
追記7
19日14時、20日5時、相変わらず下血は続いている、と云うことは禁食もつづく。微熱なく血圧等体調良好、この体調良好に医師は嗤う、良好なら下血はせんだろうと。わたしもそう思う、思うが体調がよいのも事実である。看護師はわたしが今にも下血によって昏倒するかの扱いだが。
それにしても、憩室は出血しやすいが、普通は4、5日で止まるものである。内視鏡をもう一度入れてみようかと医師、私は下血が止まるものならなんでも試していただきたい。
追記8
20日9時半、下血止まる、少なくとも止まったように思われる。これで止まれば嬉しいのだが、糠喜びにならぬよう願う。
心電図を取り、心臓血管センターで診断を受ける。改めてホルター心電図を装着、24時間の不整脈を調べるそうな。失神の原因を多方面から調査中なのだが、わたしは貧血だと睨んでいる。他方、医師は念のためにヨード造影剤によるCTスキャンを撮ると云う。こちらは憩室以外の出血の有無を全身の血管から調べる。二度の内視鏡(結局三度になった)、三度のCTスキャン、検査漬けとはこのこと、どこの重病人かと思う。
追記9
21日6時、下血が止まって二日目。順調だが気は許せない、と、ここまで書いて昼頃下履きに結構な血の跡。予定は御破算に。
ホルター心電図、造影スキャン共に異常なし。異常は偏に憩室からの出血。
ヘモグロビンが僅かに上がっている。輸血時の8.8がもっか9.5。この程度だと再度輸血が必要になるのは明らか。
追記10
22日5時、液状もしくは粘液状になった血が大量に下履きに付着。自身の消化器系のコントロールを失ってしまった。看護師がパットを貸そうかと、紙オムツを購入するので不要と応える(オムツの私物は使用禁止だそうである。病院の専属業者との契約が必要とか)。
憩室ではないが、出血が止まらず、一箇月ほど禁食を続ける患者が屡々いらっしゃるとか。どうやら今月中の退院は難しくなった。
追記11
22日、消化器内科の診察を受けることになった。これがわたしにとって最後の「藁」。こうなれば何でも彼でも掴む覚悟。
消化器内科の医師はさらなる内視鏡は必要なし、と。この二日間の下血の色に濁りがある、それゆえ、出血は憩室からサイトメガロウィルス腸炎へ移った。憩室からの出血なら鮮血だそうである。
内科医の指示によって昼から食事が出ることになった。これで「虐待」は終了、八方塞がりから一転、なにかが見えてきたような心地す。慎重に食を進めるようにとのアドバイスあり。
追記12
久しぶりの粥に鮭が一切れ、それと吸い物の低残渣食。カリウム、塩分制限食(6グラム未満)。自炊の場合は塩は一切使わないので、さらに低い。
それにしても美味い。賤しいはなしだが、食物は噛むもの割くものであって、栄養補給剤のように飲むものではない。
入院生活が長くなると味のない粥がとっておきの馳走に思えてくるから不思議。その粥との縁によってふりかけの達人になった。食品制限ゆえの自炊が基本である、よってプレタポルテは一部の寿司と病院食ぐらいなもの、そこへふりかけを加えなくてはならない(ふりかけは塩分が高いが、一食で使う量が5グラムなので問題なし)。
追記13
23日2時40分下血、鮮血。食事は昨日の昼と夜でお仕舞い。わたしの知識など葦の髄から天井のぞくの類だが、どのように考えても憩室からの出血。「出血は憩室からサイトメガロウィルス腸炎へ移った」と云えるのかどうか。長い禁食からか、便そのものは未だ出ず、便通をもって判断すべし。
追記14
23日5時45分、6時50分、9時25分、11時10分、18時15分、20時40分便通。海嘯のごとき下血。憩室とサイトメガロウィルス腸炎の双方からの出血でないのか。これでまた貧血が亢進する。症状が貧血に止まるわけもなし、気が滅入るのを禦ぐ手立てなし。
お襁褓を二重三重に穿けばもごもごして歩かれない。しかし、二重三重では溢れてしまう。一体、何を穿けばよいのか。看護師はゴム引きのお襁褓しかない、と云う。
23日14時、車は7日から病院の駐車場に起きっぱなし、このままではバッテリーが上がる。そうなればレッカー移動だが、レッカー車が病院の駐車場へ這入らない。林自動車に泣きつき、車を引き取っていただくことにする。
追記15
23日深更、14日の下血再開後、最大の出血。
入院が長引くほど危機的状況に到る。禁食を続けた方が良かったかなどと様々な思いが心に浮かんでは消える。
追記16
23日に続き24日はさらに大量の下血。ヘモグロビンは6を切る。別項を設ける。
(註 追記を屡々遣いますが、意味なく遣っております。どうかよろしく)
入院二日間は一日の点滴本数は13本だった。一旦4本に減ったが、14日の再下血後は9本になった。うち1本は禁食に伴う総合栄養補給剤(86カロリー、医師がわたしの体重管理のために選択)である。
計画的な減量なら別だが、このような禁食はまったく減量にならないらしい。食事を再開すれば二日ほどで元にもどるそうな。22日朝の体重が61.80キログラム、9日以降、禁食を含めて1.7キログラムしか減っていない。
わたしの身長から推して医師はできれば50キログラム以下に、せめて60キログラム以下に減量せよと云うが、聞き置くと云う以外手立てがない。この半年の間、55キログラムまで減らそうと格闘しての為体。体重を増やすのは簡単だが、減量がいかに難しいか身に滲みてよく分かっている。
追記
よい機会である、ドライウェイトを65キログラムから62キログラムに落とそうと思う。入院中のことゆえ、どうなるか分からないが。
それにしても長い入院である。書いても仕様のないことながら、うんざりである。寝間着から下着にいたるまでなにひとつ用意していない。爪を切り髭は剃ったが、なによりまず散髪をしたい。わたしは頭髪は十代の頃から自分で刈ってきた。風呂場と鋏があれば可能なのだが、病院の風呂は禁止されている。就寝に関係なく、二十四時間ひっきりなしの点滴である。まず、その段階で風呂は諦めるしかない。
下着は拙宅から持ってきさえすれば病院で洗濯はできる。しかし現物がなければどうにもならない。例え病院であってもわたしはまだ生きている、生きていればこそ生活がある。食事は禁食中だが、食事以外にも生活は山のようにある。せめて、駅中のスーパーへ買い物に行かれればよいのだが、外出許可は下りない。
病窓を哀れ詮ない粉雪舞う
追記
24日の大量下血の結果、パジャマすら失ってしまった。午後、迷惑を顧みず櫻井さんに電話、ベッドから動かれないわたしに替わって病院の売店からパジャマを買ってきていただく。彼と久しぶりに晤語を娯しむ、ついさっきまで六人掛かりで押さえつけられて悶絶していたのに。生還後、初の訪人(まれびと)、ありがたきかな。
生と死のあわいの儚さを知る。一方で包括も包摂もできない、離叛し乖離した関係。一方で死と生を隔てるものはなにもない。ひょんな偶然が生をもたらし、ひょんな偶然が死に至らしめる。それが病院での日々の出来事。
全粥、高野豆腐、椎茸、人参の煮物、鯛味噌、洋梨
03月09日の「ご報告3」でmoonさんが書かれた三切れの高野豆腐である。わたしが食べた低残渣食ではないが、ネットでそっくりの食事を見付けたので転載する。フルーツの代わりに牛乳が付いていた。細かいことだが、高野豆腐はこちらの写真の方が大きい。
この高野豆腐が、小松菜の卵とじ、菠薐草(ほうれんそう)のお浸し、青梗菜(ちんげんさい)の煮浸し、サラダなどに変わってゆく。
「緊急入院3」追記15で、当高野豆腐について触れている。数日後に掲げる。
鯛味噌については「嘗物の梅びしお」で詳しく書いている。上記に同じく。
今回の出血箇所は憩室と決まったが、過去のそれと比して華やかさがない。下血は朝に多く、トイレ一面が血の臭いで充たされる。今回はだらだらと途切れることなく下血がつづく。期間は長いが、かつての21単位の輸血の四分の一である。もっとも、止血剤や抗生物質が効いていることも理由のひとつに違いないが。
以前にも書いたが、凸がポリープ(癌)なら凹が憩室、日本人は大腸の右側(小腸側)によく発症する。わたしの憩室も炎症(憩室炎)を起こしているのは右側である。
憩室はわたしの持病のなかでは軽度な方に属する。しかし、貧血の主たる要因であって、さまざまな面で悪さを惹き起こす。その影響力は生活万般に亙っている。また21単位との輸血量からも想定できるように、気を抜くと容易に死に到る。
俗な云い方だが、気長に治すしかない。しかし治った次週に炎症がひどくなることもあり、気長に治すではなく、気長に付き合うしかなさそうである。
以上、moonさんから憩室について質問があって。
追記
24日の大量下血の結果、二回目は憩室が下血の理由でなく、サイトメガロウィルス腸炎と判明。
透析時から失神の際は全身が痙攣に見舞われるのは常で、全身が海老のように反り返り、がくんがくんと急激な収縮を繰り返す。内視鏡検査の結果、今回の出血は憩室、出血箇所は三箇所、やはり下血による貧血が失神の理由だった。
車椅子に縛り付けられ、トイレの中まで看護師が付き添う、ベッドを離れるとナースセンターのブザーが鳴るという完全看護。用便中も看護師が付き添うのは病人になって慣れた。最終的な個人情報とはオケケの数と性器の臭いぐらいなものだが、わたしに個人情報なるものはなにもない。
31日から4日までは総量100グラムの雑炊、5日以降は8日昼まで禁飲、禁食である。泌尿器科の医師は反対していたが、消化器科の医師の口添えによって9日から粥が出た。爾来体重は63.5キログラムで静止している。ちなみに、ドライウェイトは65キログラム。
ところで、菠薐草(ほうれんそう)のお浸しに味が付いていて驚かされる。口内炎に滲みて食べられない。菠薐草には菠薐草の味があり。温野菜(最近はソテーと称するらしい)にも箇々の野菜の味がある。さかしらな味付けは止めていただきたいもの。それが病院食の基本である。
アシクロビルとイソジンガーグル液を処方される。これで口内炎は治る。
今回は血管の硬化に悩まされた。透析患者特有の症例なのだが、点滴のライン取りがうまく行かない。左手はシャント、右手は四六時中点滴、採血は足からになる。血管には個体差があるので、看護師を非難するのはあたらない。毎回二度乃至四度の穿刺ミスが重なり、腕は傷だらけ、手首から肩まで十箇所のライン取りの傷跡が残った。次回四日後のライン取りはどうするのかしら。
造血剤の注射を打つ、強烈に痛い。造血剤は東葛クリニックでなんどか打っているが、こんなに痛かったかしら。思わず止めてと叫ぶが、看護師も心得ていて、もう終わりですと涼しい顔。
追記
穿刺はますます難儀になりつつある。22日朝の採血は六度目、ライン取りは五度目でやっと成功。ところで、落合、深川さんと云う穿刺の達人がいらした。
腰痛を抱えて退院した。医師や看護師には内緒である。腰痛で死にはしないからである。退院の日は動けたので買い物は済ませた。二週間分の食料は大丈夫である。
腰痛と云ってもピンキリだが、おそらく四日から一週間後がもっともひどいと思う。茶や水は2リットルは飲まないといけないので、トイレには行くが、電話に出られない程度である。この出られないは20回や30回のコールには間に合わないということ。よって、枕元の携帯電話の方が出る可能性は高い。以上よろしく。
7、8の両日は穿孔の検査に追われ、休み明けは肺炎の検査に明け暮れた。というのも、休みの間、体温その他が乱れにみだれた。例えば、朝38.1度が昼には36.9度、夜には37.8度といったたぐい、明らかに肺炎の兆候である。
今回は問題はなかったが、サイトメガロウィルスとは命ある限り付き合わねばならない。肺炎に限らず、いかなる病であろうとも根治はない。免疫が抑制されているのでウィルスを自分で飼い続けることになる。肺炎ならば悪くて半年、良くて三年、いずれ死が訪れる。
移植腎の拒絶反応が続いていること、糅てて加えてサイトメガロウィルス、そんなところへ貧血による失神である。食事をすれば腹に血がまわり、トイレで息めば下肢に血がゆき、昏睡状態に陥る。注意をするようにと云われても、失神の際の絶望的な痛みはよく分かっている。好き好んで失神する物好きはいまい。いつも書いていることだが、病は天災と同じく理不尽なものである。意識するとしないとにかかわらず、一方的に押しかけてくる。不条理の悪夢そのものである。
6日に何とか動かれるようになったので、7日に病院へ。採血を済ませ、採尿のためにトイレへ這入り、そのまま失神。医師、看護師3名、男性職員2名によって助け出される。病院で良かった、これが拙宅だとどうにもならない。下手すれば腐乱屍体ができあがっていたかも。
下血は少ないと思っていたが、血圧は失神時60を切ったようである。意識を回復したのは70近くに戻ってから。それにしても、意識が戻ってからトイレでストレッチャーに乗せられて臨時の病室へ行くまでの間、気が狂うような腹痛だった。当然、緊急入院である。
レントゲン、CTスキャンを撮り、3.6に跳ね上がったクレアチニンを落とすため、初日13本の点滴、8日の内視鏡に備える。泌尿器科と消化器科の医師が入り乱れての診察だった。このような大騒ぎになったのは腸の穿孔を疑っていたからで、もしそうなら小腸と大腸の部分摘出になっていた。
サイトメガロウィルスの腸炎は穿孔が付きもので、一刻を争う、もっとも危険な腸炎とされる。
「病気に関する書き込みを先行させる」と書いたが、その前にmoonさんに感謝申し上げる。電話がなく、とmoonさん。実はその間に死にかけていた。
今日は忙しかった。病院の帰り、市役所の障害福祉課へ行く。一年に四度以上入院すると四度目からの高額医療費が減額される。前回の入院は5000円ほど、今回は100000円ほど。後から差し替えが可能かどうか、なんぞ抜け道がないかとの相談に行ったのである。これも小泉元首相の置き土産なのだが、重傷の患者は早く死ねとの国民健康保険並びに日本政府の方針である。国民健康保険に疑問を抱かない能転気な日本国民に万歳。
拙宅はひどい状態だった。飲みさしの茶やスポーツドリンクのボトルの底に黴が蔓延っている。主人が黴菌で死にそうなのに、主人のいない家では黴がのさばる。ひょっとしたら、わたしがばらまいたサイトメガロウィルスなのかしら。
冷蔵庫は一度は掃除をしてもらったのだが、やはりぐちゃぐちゃ、それは分かっていたので、野菜を多品種購入してきた。病院の野菜炒めはキャベツのみ、でも食費が安いので文句は云わない。しかし、たまには生にせよ、炒めものにせよ、野菜盛り合わせが食べたいのである。
1月30日からずっと風呂へ這入っていない。這入らなかったのでなく、禁止されていたのである。話ついでに、移植した人は温泉には這入られない。こちらも禁じられている。拙宅の風呂だと構わない。今日はどうあっても風呂へ這入る。それと溜まった洗濯物を洗わなければならない。これは同時にできる。
一箇月前に入院したが、また死にそびれて戻ってきた。入院中に二度昏倒し、11日間に及ぶ下血、とりわけ24日には死と逢著した。最近はこのようなことで死ぬわけがないなどと思わなくなった。今回は死ぬのかなあ、と何時も思っている。入退院を繰り返すなかで、ある日突然当掲示板が一年間ほど放置され、そして閉鎖されるに違いない。それは次回かもしれないし、今回だったのかもしれない。入院は一箇月を超えた。次回はおそらく二箇月になると思う。そして二箇月になったとき、わたしは戻られなくなる。
最初は憩室からの出血だったが、やがてそれが他の腸炎からの出血と分かった。サイトメガロウィルスの潰瘍性大腸炎ならびに小腸の出血性腸炎と結論が出た。怖いのは小腸の方であって共に感染症である、従って対症療法しかなく、根治は難しい。下血と輸血を繰り返すの他、手立てはない。とは申せ、今回のように首尾よく病院で下血するとは限らない。突然、死が目の前にごろんと轉がった。
追記
以下、一箇月を超える病院生活をできるだけ時系列に並べる。病気に関する書き込みを先行させる。
明石のカラオケ喫茶が2月20日開店である。屋号はですぺらは止めたらしい。開店心得のような候べく候を伝えた。備前、立杭、浜田、益田など、拙宅の食器の大半と薩摩切り子が明石へ旅立った。順調な営業と共に店の役に立つことを願う。
芋焼酎に関して手伝うつもりだったが、この為体。どうやら2月はおろか3月もわたしはダイエットの刑で病院へ籠りっぱなしになりそうである。
追記
明石市鍛治屋町4-14 078-917-5801 999ビル6F 貸しビル名(スリーナイン)に合わせて屋号は銀河鉄道。定休日は月曜日、営業時間は12時の23時。カラオケ喫茶との業態の陳腐さに合わせた屋号か、銀河鉄道なら明石にだって在りそうな気がする。
銀河鉄道は芋焼酎専門店だが、シェリー樽熟成の焼酎が芋でもないのに人気だとか。当たり前なのだが、彼女は今頃気付いたようである。シェリー樽熟成品は絶対数がない上に1年1回の頒布である。在庫があるうちの購入を奨めたい。
候可候の意は、成行き次第であること。おざなり。いいかげん。「日切りまではそろべく候の揚げづめ、心任せに遊び給へ」
一昨日、再度お電話を戴き、退院は明日(金曜日)になるとの事でした。小腸や大腸からの出血は止まったものの、病が完治した訳ではないので、退院する方が不安になるとの事でした。明石へ戻る事が出来れば良いのですが、病院やお住まいの事もあり今のところ少々難しい様です。
ご報告まで。
moon
一考氏から暫く電話が無いので少々心配になり正午頃に電話を致しました。留守電にメッセージを残したところ先程電話を戴きました。憩室からの出血が契機の小腸炎と大腸炎との事、二十一日間の絶食、今日初めて重湯と好物だと仰有る高野豆腐を三切れ、そして本物の牛乳(明治牛乳)を飲まれたそうであります。声の調子からは至ってお元気そうで、退院はあと四、五日ほどとの事でありました。一週間後にはこの掲示板にも新規の書き込みがあると思います。案じて居られる方へのご報告まで。
moon
先日、再度一考氏から連絡を戴きました。未だに憩室からの出血が止まらない、輸血しながら止血剤を服用、絶食状態が続いているので栄養剤の点滴をしている、入院は多分一週間では済まない等々と、ご本人は冗談を雑え意外にしっかり話されるのですが、実際の病状は少々深刻な様であります。つい先程も、明石に「カラオケ喫茶」を開店されたばかりの奥様からも電話を戴きましたが、昨日に到るも未だ出血は止まっていないとの事。彼は、病院に停めている車を一旦自宅の駐車場へ移したいので一時帰宅したいと言うが、それだけはどうにか止めさせたと仰有る。担当医のお話でも、ご本人はいつ退院出来るのかと再三お尋ねなのだが、そのような事を言っている場合ではない、治療に専念すべし、と仰有っているそうです。早く出血が止まり、病状も悪化しない様に祈るばかりであります。
moon
昨晩、『太陽』のバックナンバーをひらいていたら渡邊氏の書棚が
登場した。見上げるだけですごい。震災で倒壊しても、くずれない
バベルの塔のようだ。
谷沢先生と泉鏡花の論集を出されていたが、もうあのような仕事は
なされないのでしょうか?この混沌とした世に渡邊氏こそ必要な
余人をもって代えられない方だ。どうか早くよくなってください。
ですぺら トップへ |
多機能掲示板 トップへ |
シンプル掲示板
トップへ |
シンプル掲
示板 記事を書く |