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金光寛峯 | シーシュポスの神々


ここ数ヶ月、友人の同人誌作りを手伝っておりました。
ずいぶん手がかかりましたが、ともかくも見本が刷り上るところまでは
こぎつけました。
いま手元にその現物があるのですが、見ていると、今にして了解できる
ところもありました。この場を借りて書いておきたく存じます。

「才能とはすなわち実績である」と以前お聞きしました。それでは実績と
はなんなのか。
今回私が手伝ったのは昔の作品の復刻でした。著作権者との交渉から、校
訂作業・入力・校正, 解題書きまで、途中いろいろトラブルや差し戻しを
経て、特にここ 2ヶ月というのは、仕事以外の私的な時間ほぼすべて編集
作業にかかりきりになってしまいました。お金も使いました。
他にもいろいろやりたい事や、本来ならばやっておかねばまずい事なども
ありました、本も読みたかったし映画や展覧会も良いものがたくさんあっ
た。義理ごともあった。いろいろ調べてみたい事も多くありました。
でも、体はひとつです。これはどうしようもありません。同時に二つも三
つもできはしませんし、限られた時間で何を優先するか、なんとか決める
しかありません。
ほんとうにたくさんの事を見送りました。

要するに何かを選ぶということは、その他の多くの選択肢を切り捨てると
いうことに他ならないでしょう。
「これに集中するんだ」と自分で決めた、そしていちおう結果は出た。拙
いものではあるけれども、一応これも実績といえば実績であるのでしょう。
だけれども、この選択をしていなかったのならば、もっと他のより良い事
があれもこれもできたのではないか?

しかし、その可能性は自分自身で切ってきたのです。多くの選ばれなかっ
た選択肢、あり得たかもしれない数多くの可能性や未来、他ならぬ私自身
の意思により切り捨ててきたものと引き換えに、実績はできました。

いま刷り上った見本誌を手に振り返り、見送ったものたちの多さを思いま
す。
才能とは実績、そして実績とはどんどん切り捨てることそのものでした。
なにかある事をやるとする、でも同じ時間で別のことをやった方がよりよ
い結果があったかもしれない、しかし両方は取れないのだからどちらかい
ずれかを取るしかない。捨てて、捨てて、捨てまくって挙句、無数の未来
を捨て去った、その代償として、1つの実績はここにある。

さてそれで、そもそも私の "実績" とやらがそもそも何からの意義なり、
意味なり価値なりあるのでしょうか。
無いでしょう。
「無為である、それを知悉した上で、なお行う。だから良い」。

思うに私がやっていることは大岩転がしのようなものでした。カミュの
「シーシュポスの神話」です。シーシュポスは山の頂上まで巨大な岩を転
がしていきますが、頂上は鋭角になっており押し上げられた岩はそのまま
向こう側に転がり落ちていきます。彼はまた麓まで降りていって最初から
岩を押し上げてゆきます。
永劫に続くというこの苦役は、一見は悲劇の構図です。しかし、何かを求
める行動に身を投じること。そして探求の陶酔に浸ること。ただそれのみ
が人間に許されている幸福なのではないのでないでしょうか。

私の岩は下まで転がり落ちたようです。さてまた上げると致しましょう。



投稿者: 金光寛峯    日時: 2001年12月29日 08:32 | 固定ページリンク





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