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世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ。
(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.44)
「敷衍曲」に対した時のおののきは、難解さによるものではありません。細かな点にまでいたる無数のすれ違いの集積を前にして、どこから手を付ければいいのか決めかねるからです。
(とりあえず金子千佳の詩が「男女の稟質の違いをよく表現している」というご意見には異議があるということを明らかにするにとどめます。)
(私に言ったのではないでしょうが)玉砕など私がするものですか。私にとって議論は戦いではありません。そもそも、戦う戦わない以前に、私と一考さんは議論の場で出会ってもいません。私たちそれぞれが持つ前提と言葉遣いは余りに大きく隔たっています。
呼びかけに返ってくる声の方向とその響きだけを頼りに、さまよいながらめぐりあおうとすることが、私と一考さんの言葉の交わしあいでなされていることではないでしょうか。
一考さんがなさったように、一節一節にこたえることは、すれ違いの集積をいたずらに大きくするだけのことでしょう。違う方法で私はとりあえずの立ち位置を示したいと思います。
学問としての哲学を学ぶとは哲学史を学ぶことに過ぎず、自分が哲学することとはまったく異なるということは、私と一考さんの共通認識かと思います。
しかし、一考さんはかつて私に次のようなことを言いました。哲学科に行ったと言うから、じゃあソクラテスなりプラトンなりアリストテレスなりの哲学をそれぞれ説明して見せろと言ってもやってもみんな答えられない。それで哲学科に行ったなんてちゃんちゃらおかしい、と。これは学問としての哲学を重視し、哲学科はそれを学ぶところだと考えているからこその発言ではないでしょうか。
「有名哲学者の学説」をうまい具合に切り取って説明できることは、哲学する上で必須の能力ではないでしょう。そんなことは、(一考さんがそうしているように)哲学のデータベースを適宜参照すれば済むことです。過去の哲学者が役に立つのは、その人が考えたことを引き受け、それをヒントにして自分が考える時だけです。そしてその時その「哲学」は変化し続ける生きたものになり、「○○の」と所有格で語られる「哲学(説)」ではなくなります。他者が考え出した概念をこのように自分の中に接木し、自分の考えと一体化させて育てたならば、その哲学者の用語は自分にとっても便利な使い勝手の良いものになりますし、理解を共有する相手と話すときにも役立ってくれます。
私も哲学用語を使うことがありますが(でもあまりない。一考さんと話すときにはほとんどないと言ってもいいくらい)、使うために使っているのではないし、必要もなく哲学者の名前を出すこともしません。先日の書き込み「パラフレーズあるいは」の背景にはエックハルトとアウグスティヌスとダンテがあったのは確かです(私の血肉と化したヴィトゲンシュタインは常にあります。そして今回の書き込みにはディヴィドソンとローティーが響いています)、だからと言って彼らの名を知ることも書物を紐解くことも必要ではないのです。私が考えたことをかつて彼らも考えたことがあるというだけのことです。私の中では重層的に響いてはいても、それはそれだけのことです。
(ところで、一考さんが会話や文章の中でばらまく哲学者の名前や用語、あれはなんのために使っているのでしょうか。(多分煙幕をはるためだと思いますけど……)。私は一考さんが「ヘーゲルの弁証法」という言葉を発するのを何度も聞きましたが、その内容に言及しているところに立ち会ったことは一度もありませんし、その言葉が議論を補強していると感じたことも一度もありません。)
私は哲学(なり文学)は、書き手がその人生によって生み出す(一対一で結びついた)ものだとは考えません。書き手は思考が生まれる為の場に過ぎないと考えます。その場が非常に細かな設定を必要とするものの場合、たまたま同様の場があらわれることがなく、ゆえに書き手と書かれたものがわかちがたく思えることがあったとしても、それは偶然に過ぎません。思考はふさわしい場におのずから立ち現れるものだというのが私の考えです。
(厳密に言うと、思考と書かれた物は異なり、書かれた物は書き手固有のものだと言えると思います。だから、文学は書き手の人生哲学なるものと固く結びつくものでもあるかもしれません。そういうものなら私はあまり興味がありませんが。)
ある人が雷雨の中びしょぬれになりながら山の天辺で鉄竿を掲げていたら、そこに雷が落ちたとします。そこでその人がそうしていなかったらそこに落ちなかったとしても、その雷をその人がおこしたとは言わないでしょう。そのような奇怪な儀式をやり続けようという決意と覚悟を持つ奇特な人物を哲学者や文学者と呼ぶことに異論はありません。でもやっぱり雷はその人のものではないでしょう。私は思考をこのようなものとして捉えています。
だから、(便宜的にそう呼ぶことはあるとしても)「○○の哲学」というものは存在しないでしょう。誰かがかつて考えたことを、私もまた考えるか、あるいは考えないかです。それはその誰かのものでも私のものでもありません。
議論が戦いではないというのは、そういうことです。「私の考え」と「一考さんの考え」がぶつかり合って一方が勝ち一方が負けるという図式を私は持っていません。私の思考と一考さんの思考があらたな場をつくり、そこに新鮮な考えが立ち現れることを期待しているのです。結果的に、両方あるいは片方の思考は大きく変化するかもしれません。しかし、それは思考のおのずからなる変化であって、「負けて屈した」ためではありません。
個やアイデンティティやオリジナリティを否定する一考さんが、「文学は書き手個人の倫理観、価値観、歴史観を綴るものであって、アナロジーもしくは一般化とは所詮馴染まない領域のものです。三島由紀夫の死と共に三島の文学も終了するのであって、三島文学とは三島由紀夫の存在そのものだと申せましょう。」と語るということが私には解せません。
多くの場合、一考さんは形式と内容を混同し、カテゴリーミステイクをおかしているのではないかと思います。
肯定・否定する(判断する)為には前提が必要です。「黄が嫌い」、「青が好き」というのと同列に「色が嫌い」ということはできません。色はこの場合判断の前提だからです。色を形式、黄・青を内容と言い換えることが出来ます。ちなみに、「色」を判断するためにはたとえば他に「温度」や「形」などを内容として持つ「感覚」という形式などを前提にする必要があります。
このように、形式と内容は入れ子になっていて、どのレベルにでも設定することができます。しかし、それ以上外側を持たない特別な形式があります。それは(もっとも根本的な意味での)「存在」、「世界」などといった形式です。
可能なのは「存在するものに対して」、「ある規準に照らして」有意味・無意味を判断することだけです。だからまず第一に、判断を可能にする土台である存在自体を判断することはできません。
そして第二に、前提や条件を伴わないならば、どのレベルでも判断はできません。
一考さんが「すべてを否定する」などと言うたびに「安易です」とか、「どこに立っているつもりなんですか」などと言うのは、自分の判断を可能にする前提をないことにして(ひょっとして、気がつかないで?)「すべて」と言ってしまうことに異議を唱えるからです。
そしてまた、一考さんの存在が「孤独や失意の中に溶解してゆく」といった内容を持っていようとも、それであらゆる人の「存在」という形式を否定しようとするのは混同も甚だしいと思います。安易と言って据わりが悪ければ、粗雑だとでも、慎重でないとでも、懐疑が不徹底とでもなんとでも言えましょう。強調しておきたいのは、一考さんの人生が安易だと言っているわけではないということです。カテゴリーをごちゃ混ぜにした上、一気に結論してしまうことを安易と言っているのです。「すべての存在は虚しい」という発言は、たしかに「大雑把すぎ、楽すぎ、危険すぎ」るものの考え方です。
どんなにつらかろうが不幸だろうが、それは世界の中の一登場人物のつらさであり不幸なのです。そんなものはこれまでもありこれからもあるありふれたものであり、この世界の一挿話に過ぎません。そんな一挿話を全体に敷衍して世界を語るなんて、結局自己を特権化していることになりはしないでしょうか。
(孤独を感じ、自分を憎み責め、負の感情に苦しんだことがないわけではありません。それが私にとっていかにリアルであろうとも、それは世界という形式とは違うレベルにあるということです。)
そしてまた同時に、世界は私と離れたものでもありません。
(二階堂奥歯の人生の内容に関係なく)私が存在しているということ、そしてそこにこの世界が開けたということ、その点において世界と私とはわかつことができないのです。視界と視点が離れては存在しえないように。
そして私が語りたいのは、何かが見えているということ、見える範囲、見え方です。具体的に何が見え、それが孤独な景色だとかそうではないとかいうことは、私にとって最重要事項ではありません。
一考さんは、書き手固有の人生哲学が見えてこない文学など文学ではないとおっしゃいます。そのように個の屹立を求める心性と、個を否定しようとする心性とが、どのように関係しているのかを私は知りたく思います。等価であることに絶望したがゆえに、生き延びるため・自己を肯定するために、ことさらに個人の倫理観・価値観をつづるのでしょうか?
私は誰もがひとしなみに人間であることには絶望などしません。そもそも何を希望して(それがかなえらないからといって)そんなに絶望しているのですか?
人間というカテゴリーの中にはたくさんの人がいて、それぞれの内容を持っている。皆同じ形式の中にいると気がつくことと、その個々の内容を無意味とすることはまったく次元の異なることでしょう。そして、私が形式の次元に気がつく時に感じるのは絶望ではなく、新しい視野に対するおどろきであり、よろこびです。
まさか、絶望なんて! できるならもっともっと他の次元を知りたいのです。他の次元を知ったからと言って、これまでの次元内の価値はなくなりはしません。
もちろん、それらの次元の内、どれかを重視することはできます。私は基本的に外側の次元(形式)を重視します。それだけに、内容と形式を混同し、形式を内容で汚染することによって成り立つ一考さんの考えに対して異議を唱えずにはいられないのです。
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