ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





【掲示板1.0では、時系列順(旧→新)に記事を表示しています。】

←前月「 2005年08月」 | メイン | 「2005年10月」次月→

2005年09月 アーカイブ

一考 | 感謝

 會利さんへ
 宇野さんの「眼と深淵」と拙稿を抱えて、横須賀さんがいま帰られました。「射」についてここまで書き込まれたものはないと、大層お喜びでした。残された写真を見てたちどころにあれだけ明晰な文章をお書き下さったことに、私からも感謝です。これで横須賀さんの作品集は重みを加えました。発行は11月19日ですが、展覧会場での発売が書店より先行します。写真展へはぜひご一緒致しましょう。なお、念のため当方で校正しましたが、「計量」以外は問題ありませんでした。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月01日 02:51 | 固定ページリンク




Cocoa | エッチなお友達探してますぅ~っ

まずは自己紹介ってことなんだけど、ここに書くと色々長くなっちゃいそうだからとりあえずCocoaのHP見てね。かなり自己満?なサイトだけど、Cocoaがどんな女の子かって分かってもらえると思うので。 写真もいっぱい載せてみたので、良かったら見てねぇ~!! http://g-space.jp/~flyhigh/



投稿者: Cocoa    日時: 2005年09月01日 14:54 | 固定ページリンク




一考 | 二日酔い

 昨夜というよりは今朝、帰宅途次の櫻井さんのはなしがむやみに面白かった。オタクにとって文学は資料以外のなにものでもない。文学の意味内容に立ち入ってしまうとオタクでなくなり専門家になってしまう、オタクたるもの書物の表層に踏みとどまらなければならない。
 帰宅後、産経ニュースの一報に目を通す。郵貯の口座数が六億に近く、その10パーセント強が1000万円を超えた違法貯蓄であり、20パーセント強が1000万円の口座である等々。郵政公社の資料編を訂正し、わかりやすいグラフに仕立て、民間の銀行口座との差違を詳しく述べていた。
 わが国の人口がいつの間に六億になったのかなあと思いつつ、民間企業なら株価操作や粉飾決算で逮捕者が出るのに公社は無責任でいいなあと思いつつ、日本人の民度を考慮すれば選挙によって民意を問うことだけはしてはならないのではないかと思いつつ、やけ酒を喰らう。
 知己のサイトはほとんどが休止した。選挙期間中はどのような表現が公職選挙法142条に該当するかが分からないからである。当掲示板も某政治家秘書から指摘された部分を削除した。もっとも、当掲示板はアナーキズムのプロパガンダを専らとする、従って142条は糞食らえである。

 2007年問題の派生は1947年から予測されていたのであって、なにを今更である。91年からのわずか16年のあいだに団塊世代の退職金を工面しなければならないのである。年金や保険の負担を軽減するために早期退職を勧め、正社員を減らし派遣社員を増やすのは序の口、諸団体の民営化がたとえうまく行ったところで、年金制度に多大な混乱をもたらすのは必定である。
 この件に関し、ホリエモンが非凡な意見を述べていた。既に破綻したものを誰が弄くろうがどうにもならない。そして国民の過半数は現状の年金制度にそっぽを向いている、第一、もっとも大切な自分の老後を国まかせにするとはなにごとぞ。そこでホリエモンさんに一言、フジテレビを買収する金があれば、自民党を買い取っていただけまいか。選挙に立候補するような柔なことはせずに、日本国のオーナーに直接なるべきではなかろうか。
 この四年間に政治の世界でいかなる改革が行われてきたか、「表層に踏みとどまる」のを潔しとするひとたちは理解しない、理解しようともしない、否理解する必要もないのである。個々もしくは地域の利権に拘泥するイラクや日本のような国の民、言い換えれば、現状を諾い、精神のあり様を保持しようとする保守反動の輩が心底から求めているのは独裁者である。王様にとって唯一の財産は国民、従って専制君主は民を大切にする。ことここに至っては、中国の経済圏に取り入ってマルティニーク島やバージン諸島のような海外領になるか、もしくはアメリカにお願いして五十一番目の州に格上げしてもらうのがもっとも賢明な方策ではないだろうか。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月02日 21:16 | 固定ページリンク




一考 | だめ押し

 先だって理解を求めないと書いたので、なおさらのこと註釈は入れたくない。従って註釈ではなく、だめ押しを一言。時事問題に関し、言いたいことの大略は述べた。そして意見が合う合わないはそのひとの勝手である。ただし、意見の相違を私は黙視しない。考えのないひとの考えを私は思考や思想として認めない。そのためにこそ「現状を諾い、精神のあり様を保持しようとする保守反動の輩」と書いた。「保守反動の輩」すなわちものを考えないひとは、私にとって敵である。そいうひとが過半数を占めたとき、日本はアメリカの五十一番目の州になるしかないのであって、決して冗談で書いたのではない。そして、それはそれでよいと思っている。ただし、私はアメリカという国を積極的に嫌っている。従って、私が生きているあいだは困る、迷惑なのである。

 ここからはおまけである。靖国問題は小泉ひとりの問題ではない。戦争責任を戦犯にのみ押しつけて、安穏を決め込んできたわれわれ全員の問題であろう。昨今「講和条約十一条の誤訳」とか「侵略」という文字がポツダム宣言に含まれていないとか喧しいが、「目を覚ますのはあなた」で書いたようにサンフランシスコ条約と日米安全保障条約の受諾を交換条件に日本は独立を与えられた。素直に認めるのがいやなら、サ条約に調印した四十九箇国を相手に戦争をすればよいではないか。
 たとえ百回謝罪しても新たな悪口雑言があれば、百一回目の謝罪をしなければならない。責任転嫁や暴論が繰り返されるから謝罪を繰り返すしかしかないのだが、同じ謝罪が五十回も繰り返されると、その謝罪をいかように信じればよいのか分からなくなってくるのは当然である。
 なにを差し置いても、戦争責任に対するわが国の統一見解を出すべきである。自らの意見を持たない、その曖昧さが諸外国につけいる隙きを与えているのである。国家として民族としての統一見解をこじつけなければ外国とコミュニケートしようがないではないか。そのこじつけが理念であり、理念のない政治などあろうはずがない。なにも政治に限らない、他者との接点は強牽、詭弁の繰り返しのなかからしかうまれてこない。それが嫌なら首を吊るしかない。
 前述した暴論によって、わが国にあってはしばしば大臣の首が挿げ替えられる。「談合政治」で書いたように、ここにも政党が政策集団でない弊害が顕れている。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月03日 21:29 | 固定ページリンク




如月 | サイトが復旧しました。


8月中旬から、小サイトおよび掲示板がサーバー・ダウンしておりましたが、このほど復旧いたしました。
みなさん、どうぞ、倍旧のご贔屓を。
(先日渋谷のシネマライズでみた犬童一心映画『メゾン・ド・ヒミコ』がとてもおもしろかったので、当面、歴史棚上げでそれについていろいろ書いてみようかな…、なんて風にも思ってます。)



投稿者: 如月    日時: 2005年09月05日 08:58 | 固定ページリンク




一考 | 弁証法の魔

 マゾヒスムに関するユニークな論攷として、ジル・ドゥルーズ『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳)、河野多恵子『谷崎文学と肯定の欲望』、種村季弘『ザッヘル=マゾッホの世界』の三冊が七十年代に相ついで上梓された。ユニークと著した理由は、クラフト=エビングが論じたサディスムとマゾヒスムの相互補足性、弁証法的単位性を不当として否定した点にある。クラフト=エビングの著書が狹隘な諸前提のうえに成立したひとりよがりの心理類型学の典型であったにもかかわらず、これら三冊の書物が現れるまでは疑いを持たれずにきたのである。その内、ドゥルーズと河野多恵子の著書に関しては宇野邦一さんがエッセイを著されている。ぜひお読みいただきたい。
 ウィーンの精神医の『性の心理学』の公刊が一八八六年、ドゥルーズの原著の公刊が一九六七年である。実に八十年の間、サディスムとマゾヒスムは並置の接続詞「と」によって無批判なまま、一種の依存関係に置かれてきた。その依存関係への反論としてドゥルーズはひとつの艶笑談を紹介している。某所でマゾヒストがサディストと出会う、千載一遇のチャンスとばかりにからだを痛めつけてくれと願うのだが、サディストは取り合わない。生贄に快感を感じられてしまっては、サディストとしての立場がなくなる。鞭を振るう側もふるわれる側も、共にマゾヒスムの世界の住人でなければ困るのであって、どこまでいこうがサディスムの世界とは無縁なのである。
 サディスムとマゾヒスムの問題に関して、クラフト=エビングもフロイトも気ぜわしい二者択一や安直な弁証法的統一によって、二項対立のあいだの垣根をこともなげに跳び越えてしまう。二項対立にあって大切なのは、双方の異質性や多義性を知ることであると先日書いた。サディスムとマゾヒスムにあって、性徴と性格はことごとく一致しない。従って、それらが対置されるに至った条件、主と従、または支配と服従の関係を明らかにし、それからの解放を導くための二項対立でなければならない。ところが、クラフト=エビングもフロイトもふたつの異なる概念を一枚のコインの裏表であるかのように錯覚してしまう。そのような虚構に迷い込ませてしまうところに二項対立の危うさがある。いわば、弁証法の魔のような隙間にクラフト=エビングもフロイトも陥ったのである。
 ドゥルーズと種村さんの著書がクラフト=エビングの「サディスム=マゾヒスム」とのどんぶり勘定に鉄槌を下したと書けば手数はかからないが、はなしはそれで終わらない。二元論的対立を肯うがごとき身振りを演じながら、徐々に視点をずらせていく、その転移もしくは転位によって、二元論がもたらす虚構が、また不毛が赤裸々にされていく。ドゥルーズの著書にあっては、そうした志向的内在が、並置されたそれぞれの項目の自立をうながしていく。雨後の筍のようにひしめきあう二項対立、ありとある弁証法が仲良くあるいは仲悪しく共存するなかにあって、それら全体を蓋う球形の宇宙のようなものが、やがて立ち顕われる。否定するでもなく肯定するでもなく、二項対立をまるごと呑み込んでしまう開かれた場、開かれた言語にあって、乾枯した殻を脱ぎ捨てて解放された個々の項目は独自の問題を提起する。その辺りの消息はこと細かく書かない、書物を直接読んでいただきたいからである。
 ここで書いておきたいのは、種村さんは『ザッヘル=マゾッホの世界』(平凡社ライブラリー)を著すに際し、先行するドゥルーズの著書から多くを負っているということである。言語体験としての世界体験、離郷体験や流浪がもたらす未決の宙づり状態、あるいは生きかたそれ自体が一種のだまし絵であるかのようなマゾッホの演劇性等々である。「サドにスピノザ思想が、推論的理性があるとするなら、マゾッホにはプラトン主義が、弁証法的想像力がある」とはドゥルーズの卓見だが、そのドゥルーズと種村さんとのあいだには、「イデアを拒否する変則的プラトン主義」との共通項がある。「白痴的アナーキスト」でも触れたのだが、洋の東西を隔てて同時期に、畸型や倒錯の内部に身をひそめながら二項対立からの遁走を試みたところに、ひとつの時代の要請を感じるのである。

 種村さんに関するエッセイを書くに際して、頭を離れなかったのは二元論である。二元論でも、二項対立でも、葛藤でも一向に構いはしないが、ひとがものごとを考えるときに二元論なしではほとんど不可能に近い。ヘルメスやトリックスターについて考えるときにも、遁れようと思っても二元論からは遁れられない。その二元論からの解放を試みた最初の作家が澁澤龍彦であり、種村季弘でなかったかと思い続けてきた。歴史と社会の存続の基盤である二元論的思考の拒絶はひとをアナーキーな場へ誘う。そのアナーキズムの有りようが、澁澤龍彦と種村季弘ではずいぶん異なる。その差違を的確に言い表せないものかとずっと考えてきたのである。書いては消し、書いては消しを繰り返し、なんとか二十枚に纏めた。当書き込みはその折の反故の一部に手を加えたもの。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月05日 19:24 | 固定ページリンク




一考 | シュルレアリスムと性

 グザヴィエル・ゴーチエの「シュルレアリスムと性」が平凡社ライブラリーから再刊された。訳者は三好郁朗さん、かつてルネ・クルヴェルの「ぼくの肉体とぼく」を私は編輯している。「シュルレアリスムと性」が最初に上梓されたのは1974年、朝日出版社からであった。当時、評判だったケイト・ミレットの「性の政治学」と一脈相通じるきわめてアクチュアルなインパクトを内包したエッセイである。
 ミレットはD・H・ロレンス、ヘンリー・ミラー、ノーマン・メイラーのような性の文学の作家たちを男根中心主義と批判し、彼らの状況判断が誤っていて、作品の偏向が有害であると指摘する。他方、フロイトの男根中心的な理論体系、すなわち主観的秘教主義、禁欲、保守性などはそっくりそのままブルトンに受け継がれてい、それこそが革命に対するシュルレアリスムの裏切りだとゴーチエは糾弾する。
 性差別を温存したままでの性の解放など、所詮は男性がよりよく女性を享有するための強弁であり、反動的改良策でしかない。自ら革命思想を自認したコミュニズムとシュルレアリスムが、結果として、性欲をその原理において抑制するに至った反革命性をゴーチエは明確に跡づける。 まことに手厳しいブルトン批判なのだが、当時の私の目には説得力があるように思われた。「シュルレアリスムと性」一巻は、私にシュルレアリスムとの決別を迫るものであったと言っても過言ではない。そして、女性の疏外状況の理想化、永続化を計る企てに抗議しつづけた倒錯的性愛実践者のルネ・クルヴェルに傾倒していったのも、ゴーチエの導きであった。
 ラカンの影響が強いが、そのラカンやドゥルーズを経た今日ではいささかの問題点もある。同性愛の章で当然触れなければならないマイノリティの概念を考察せず、サド・マゾヒスムの章では否定するフロイトの理論からの解放をなんら試みていない等々である。しかし、その辺りをさっ引いても面白い、現在にあってなお有効なシュルレアリスム批判の書である。
 種村季弘さんがつとに指摘するように、フロイト、ライヒ、マルクーゼという精神分析学の一系譜はシュルレアリスムの理論形成と深く重なり合っている。重なり合うのは構わないが、その反動的傾向は困ったもので、ネット社会の今日、その性差別の傾向はますますひどくなっているように思われる。「異常」であれ「倒錯」であれ、もしくは「男らしさ」であれ「女らしさ」であれ、性欲を常に性器的なものに閉じ込めようとする男性中心の文化が瓦解するのは何時なのか。男であれ、女であれ、なんであれ、そのような概念はどうでもよい。個々のひとはまず欲望の主体であると同時に欲望の対象である。それは対立する概念ではなく、融解し滲透しあうものでなければならない。エロティシズム、ひいては性の問題こそが、革命の起源の場であり実践の場であらねばならない。

 平凡社ライブラリー版には旧版の「訳者後記」も収められている。六十年代の思想的激動の一端が垣間見られる傑出したエッセイである。また「訳者後記」に出てくる「君」は若くして縊死した大槻鉄男さんのことである。セリーヌやブルトンやシュペルヴィエルの名訳を遺したフランス文学者にして詩人。七十年代、私の京都時代は彼と共にあった。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月06日 02:07 | 固定ページリンク




一考 | 軍産複合体

 アメリカはかつては民主主義の国であった。交戦権が議会に属し、文民統制が効いていた時代があったのである。ところが交戦権を大統領ひとりに委ね、議会としての役目を自ら抛り投げたとき、アメリカは絶対資本主義の国となった。議員の過半数が軍産複合体と関わりを持ち、そこから得られる寄付金がしがらみとなって利権を生み、交戦権を手放すに至ったのである。ブッシュにせよ、ラムズフェルドにせよ、ライスにせよ、みなさん軍産複合体の代理人である。
 支持するひとがいなければ、政治家になれないが、支持者が組織であれば、国政に専心することはかなわない。その典型を私はアメリカの議会に見る。ロビイストが跋扈する、あのような国にだけはなってほしくないと願うのである。

 9.11が他国を侵略する免罪符として用いられている。だったら、8.4(トンキン湾事件)や1.1(イラク空爆)はどうなるのか。アメリカは理由をでっちあげ、他国の民間人を理由なく殺戮しても謝罪ひとつしない。開戦の3月19日未明、B-1B爆撃機によって50発の精密誘導兵器が投下され、軍事目標に命中したのはわずかに8発、他の42発は見事に民家へ着弾、狙い通り多くの民間人が殺された。
 しかし、そのようなことをいくら述べても虚しい。素手に石を持って、ミサイルや戦闘機や戦車と闘ってきたパレスチナの例もある。宗教の教えに叛いてまで、爆弾を身体に巻き付けて突撃する個人をテロリスト呼ばわりする理論的根拠がどこかにあるとでも言うのであろうか。彼らは軍産複合体が仕掛けた戦争に否応なしに従わされているのであって、闘わなければならない相手は軍産複合体とかかわりを持つ世界中の企業ならびにそれら企業で働く労働者なのである。殺戮に用いられる最新兵器は軍産複合体の産物であり、世界中の企業が深くかかわっている。当然、わが国の企業も50余社が部品の製作にかかずらっている。私がいいたいのはわれわれも殺戮の当事者だということである。意識するとしないとに関らず、生きるという行為それ自体が、「現実の世界の動きに巻き込まれて存在する」ことなのである。

 さて、市会議員や県会議員が出世して国会議員になるのであれば本末顛倒である。地域には地域の、国には国の行政があり、個々の政治家の視点も哲学も異なる。自らの立ち位置は自らの理念と信念の背丈に合わせて決められなければならない。地域固有の政策立案はそれら地域に詳しい議員に委ね、地元出身者や特定の団体の利益を代弁するようなひとは国政に参加させるべきでない。今回、地縁も血縁も持たない公募された候補者が多く立候補したが、数年前には考えられなかったことである、かかる構造が機能するさまを民主主義という。余談ながら、軍産複合体の成立を許さなかったのがわが国の憲法の存在である、大いに自慢すべきことと心得ている。
 グローバル化によって単一の国家の利益を追求することは不適切になりつつある。それを強引に押し進めればアメリカや北朝鮮の二の舞になってしまう。相互依存の深化は国際関係を緊密にさせる反面、均衡した依存の内容をもたないので、しばしば利害の対立を誘発する。国益という概念そのものを梳る時代がやってきたのである。旧態の利権の論理は世界のいずれにあっても通用しない。さればこそ、地域の利権を掌中にしたいひとは地域に、組織の利権を掌中にしたいひとは組織にお帰りいただく、今回の衆院選挙の最大の眼目はそこにある。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月06日 20:55 | 固定ページリンク




一考 | 貸し出し可能

 北端あおいさんへ
 グザヴィエル・ゴーチエの「シュルレアリスムと性」が貸し出し可能になりました。ですぺらに置いています、いつでもどうぞ。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月07日 23:09 | 固定ページリンク




北端あおい | わぁ!


どうもありがとうございます。
先日は、ほんとうにそちらへ行くのは久しぶりでした。
また、近々伺いますので、どうぞよろしくです。



投稿者: 北端あおい    日時: 2005年09月09日 15:18 | 固定ページリンク




一考 | らっきょの皮むき

 『澁澤さん家で午後五時にお茶を』(学研M文庫)を読んでいて、巻頭に気になる文言を見付けた。

 「一般に表現活動に従事する人間は、軽微の、あるいは重傷の二元論に冒されている。彼の内部と外部、影と光、過去と現在との間には調停し難い落差があり、その対立物の葛藤から作品世界が形作られているので、葛藤を形成する主要な原型的モチーフを洗い出せばそこから作家の全貌が窺い知れるだろう。しかるにこの場合には、当の葛藤が存在しないのである。つまり、二元論がきれいさっぱり欠如しているのだ。したがって、澁澤龍彦はしばしば『白痴的』に見える」

 「二元論がきれいさっぱり欠如している」とは痛快きわまりない指摘だが、その伝でいけば、種村季弘は「二項対立を体現する両義的・媒介的性格」を具えたひとということになる。と書くのは易しいが、この間の消息は難儀である。「きれいさっぱり欠如している」といわれて「ああ、そうですか」とうなずけるものではない。そもそも、いくら気質に恵まれているからと言って、まったく葛藤のない人間なんぞいるのだろうかといささか心配になる。

 柿沼裕朋さんは種村季弘論のなかで、種村さんが生涯こだわり続けたテーマに、詐欺師、言葉、無意味、影法師、錬金術といった実態がないものと怪物、ねじれ、畸形、水、まどろみといった無垢なるものがある、と指摘する。柿沼さんが言いたいのは、虚無的な種村季弘と、虚無主義に徹しきれない種村季弘とのあいだに葛藤があったのではないか。その潔しとしない部分、未練がましさにこそ、種村季弘と澁澤龍彦との違いがあったのではないかと言うのである。柿沼さんの文章はつづく、

 「(種村さんは)人生は不確かで無意味であるという考えをきっぱりと割り切って受け入れることが出来なかったようだ。戻られないと解っていても、幼年期の、自己同一崩壊以前のまどろんだ状態を渇望していた。言い換えれば、世界と主体が混然一体となり、外殻を不死身甲虫に守られた安全地帯のなかで、何もしないでぶかぶかと無力で浮いていたかったのである」

 この辺りからは柿沼さんの独断場である。漱石以来続いてきたわが国近代文学の宿痾とも称すべき「自己本位」などというしみったれた文学の乾枯した殻を蝉脱せんとしたところに、澁澤龍彦の、種村季弘のおもしろさがあるのだが、その構造を柿沼さんは知悉している。
 種村さんがいう「澁澤龍彦の気質」は種村自身にとって大きな憧憬であると同時に、越えねばならない障壁でもあった。種村と澁澤というまったく異なった作家において、共通項がもしあるとするならば、おそらく二元論からの解脱だったと思われる。二元論からの蝉脱に澁澤さんは両義性を、種村さんは自己同一崩壊以前のまどろみを器官射影として携える。器官射影とは内なる機構の外の世界への置換である。

 種村さんの『書物漫遊記』が上梓されたのが1979年1月20日、澁澤さんの『玩物草紙』が上梓されたのが1979年2月25日である。共に骨法は小説、偶然とは言え、おなじ時期に創作の世界へ大きく足を踏み入れることになる。言葉による観念の解放を試みるひとにとって、自分自身は玩弄の対象にこそなれ、検閲の対象にはならない。「草紙=喪志」との語呂合わせめいたタイトルがその間の消息を物語っている。他方、種村さんは澁澤の小説について「人の世は夢、夢のまた夢のカルデロン風の建造物は層をなしてつみ重なる。けれども材質が夢であるからには、いくらつみ重ねても男根状に聳立することはない」と著している。
 同時期の種村さんに「夢」または「夢記」と題された掌編小説の連作がある。島尾敏雄や井伏鱒二や澁澤龍彦のそれと同じくトートロジックな重語法で小説の原器的形態を表出した作品で、タイトルに相応しく内容的な実体はなにもなく、言葉の現実による記述に終始する。「夢」とあるからには当然で、二元論的緊張が不気味なほど欠如した、謂わばらっきょの皮むきのような作品なのである。澁澤さんの「高丘親王航海記」を「自由意志の羅針盤をうしなって偶然の洪水の只中をひたすら受け身のままに漂う」作品と評した種村さんが「自己同一崩壊以前のまどろみ」を著したといえようか、ただしその場合、「偶然の洪水」を「逆理の洪水」に差し替えなければならない。そして柿沼さんの種村論もまた、トートロジーの輪のように種村季弘のまわりを漂い続ける。マゾッホ、ドゥルーズ、澁澤龍彦、種村季弘、そして柿沼裕朋とつづく文化的先天性に着目したい。反転、転位、顛倒、仮装、弁証法的分裂といったソフィスト的技法の駆使にあって、出来合いの中身や内容といったものは夾雑物に過ぎない、内容のなさにおいてあらゆる事象は等価になるのである。

 「がらんどうとまどろみという永劫の乖離は種村さんのなかに複雑な屈折をもたらした。空虚と無垢なる状態への引き裂かれた願望とそこから生じる屈折がいくつもの入れ子をなして重なりあい、目に入る世界のさまざまな現象や物質を巻き込み作り上げられていく迷宮。そうした幾層もの屈折が、一筋縄ではいかない種村ラビリントスや百面相ぶりを生む一つの要因であったと思う」(引用はすべて「迷宮タネムラの解剖学」より)

 柿沼裕朋さんの種村季弘論「迷宮タネムラの解剖学」は平凡社の「月刊百科10月号」に掲載される。発売日は9月25日、ご購読をお薦めする。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月09日 20:18 | 固定ページリンク




一考 | 投票終了

 選挙がはじまる前日の予測だったのですが、書き込む機会をなくしました。投票時間が終了しましたので載せておきます。共同ならびに五紙のなかでは東京新聞にもっとも近いようですが、比例で自民と民社のあいだにもうすこし差が出るかもしれません。最後まで拮抗し、予測のできない選挙区が二十区ほどありました、それらは今回の風向きに応じて自民党に加えました。これほど流れが読みにくい選挙は珍しいと思います。
 マニフェストはひとわたり目を通しましたが、相も変わらず理念はなにもございません。ちゃらんぽらんな投票を強いられているようで、気分のよいものではなかったと申し添えておきます。理念がない以上、既存の組織ないしは常識とされている価値判断の顛倒の可能性を投票基準にするしかなく、お寒い選挙だったといえます。目標は二大政党制であり、政権交代なのですが、民主党党首のネガティブな発言の繰り返しには幻滅させられました。討論会での岡田氏の発言は小泉首相へのヤジに終始、逆に公明党や国民新党党首の控えめな発言に建設的かつ具体的な信念が垣間見られました。精神とはことばであり、言葉によってしか理念を表明することはできません。ヤジやネガティブ・キャンペーンでは選挙になりません。政権交代は再度見送られることになりそうです。
 選挙とは関係ありませんが、鈴木邦男さんのホームページに乃木坂うづき氏の「がんばるな!?新左翼」が掲載されています。三章の「ステ貼りは芸術だ」は抱腹絶倒、新左翼の立候補者がいないのを寂しく思いました。
 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/ganbaruna001.html

     小選挙区  比例    計
自民    187  76  263
民主     88  66  154
公明      7  25   32
共産      0   8    8
社民      1   4    5
国民      2   0    2
日本      0   0    0
大地      0   1    1
無所属    15   0   15
計     300 180  480



投稿者: 一考    日時: 2005年09月11日 20:03 | 固定ページリンク




一考 | 選挙結果

 予測以上に自民党が大勝したようだが、もっと勝ってもよかったのにと思っている。なぜなら、私は若者にしか期待しないからである。
 新人八十三名のうち十名がなんらかの形で派閥にかかわりを持っているが、他は無派閥であり、首相は派閥に属さなくても必要な資料の開示を認めると公言した。団体や組合の支持基盤がなければ、政策だけが闘いの武器になる。そのような若手代議士にとって官僚が抱える資料と勉強会が必須になる。首相の意見は正しく、すばやい対応は見事である。これで視界から消え去っていた政治が抱える多くの問題が浮かび上がってくる。
 新人の数に比例して政治家から驕りは薄らいで行く。数を頼みとする長が陥るのが慢心であって、新人は奢り高ぶりとは縁がない。また派閥に属さない新人はイエスマンには成り得ない。今回棄権を含めた造反議員のうち、自らの意見で反対したのはわずか三名、一名は私怨、他は派閥の締め付けであった。民主党の河村たかし氏が選挙期間中、党議拘束について再三触れていたのも見逃せない発言であった。
 かつて、アメリカの核は帝国的侵略が目的であって、共産圏の核は世界平和が目的であるとの暴論が闊歩していた。イデオロギーと支持母体は論理を狂わせる、百害あって一利もない。三島由紀夫がイデオロギーへの不信を表明してから四十年を経て、政治がやっとイデオロギーと支持母体の呪縛から逃れようとしている。
 これからの自民党は百花斉放を迎える。東京選出の新人が議員年金の廃止を声高に叫んでいたように、これから新旧の世代抗争がはじまる。そして明年、カリスマが居なくなれば組織は求心力を失って崩壊する。冷飯を喰わされる旧世代の分派ではなく、新世代が新党を立ち上げ、逆に中枢がそちらへ移動するようなことが起こる。そうならなければ、政権交代可能な二大政党制ははじまらない。次の衆院選挙は四年を待たずして起こる。端緒はともかく、改革の本番は若者にしか行えない、今回の総選挙はそのための種蒔きであった。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月14日 00:07 | 固定ページリンク




一考 | 理念はいずこ

 郵政民営化における最大の問題点は郵貯資金をハイリスク、ハイリターンの金融市場に放出すること、いまひとつは、このままでは値上がりが見込まれない不動産の売買や高層ビル建設に使う、の二点でなかったろうか。とりわけ、後者には不透明感が付きまとう。高年齢化と人口減少に伴う低成長社会にあって、新たな社会的基盤の整備に金を使う。それは経済の閉塞感を打ち破るための苦肉の策であり、言い換えれば、ミニバブルを意図して起こさせるための新手の手法でなかったか。国債の金利が一パーセント上がれば消費税を一パーセント上げるのに相応する。しかし、そのためには数十兆円の財政投融資が必要になる。さればこそ、赤字国債を増やさずに経済の活性化をはかるにはどうすればよいのか。しかも、資金の直接利用ではなく間接利用によってである。経済官僚の視線が郵貯の有効利用の一点に集まったのは、蓋し当然であった。
 「官から民へ」の掛け声のもと、足並みは揃った。しかし、民間銀行による無節操な融資と不動産会社による無鉄砲な海外投資が巨大な不良債権をもたらしたのではなかったか。郵貯資金の放出によって、せっかく減らした不良債権が増えないとの保証がどこかにあるのだろうか。与野党共に、市場競争に郵貯を委ねる、さらには市場競争に国益を委ねることの是非を問う論議がなされなかったのはなぜなのか。さらに、郵政民営化に必要欠くべからざる金の「出口」の規制にかんする法律論議をどうしてしないのか。完全民営化までのあいだ、一握りの官僚や政治家に私物化されないように、頑丈かつフレキシブルな郵貯の蛇口を拵えるのが立法府の役目ではないのか。にもかかわらず、過疎地の郵便局の存否や小口預金利用者の利便性などに問題が際限なく矮小化されていったのはなぜなのか。この論点のすり替えを考案した黒幕はだれなのか。
 郵便局の内部構造や職員の身分のことなど私にはどうでもよい。そして郵政は民営化されなければならない。ただ、無法状態での民営化によって郵貯はいずれを彷徨うのか、それを知りたいのである。

 来週中にも造反議員とその支持者たちの自民党からの除名がはじまる。それと平行して、国民新党、新党大地、そして郵政造反組十余名による「新・新党」構想が進んでいる。綿貫民輔、野呂田芳成、亀井静香、堀内光雄、平沼赳夫、滝 実、亀井久興、荒井広幸、野田聖子、鈴木宗男、田村秀昭、長谷川憲正など大物ばかりである。私怨と慢心の交差点に咲く徒花であれば、早晩小沢一郎に飲み込まれてゆく。
 一方、民主党では派閥抗争が続いている。前原誠司の他に民主党代表を狙って菅直人が手を挙げている。現状で、菅直人が代表になれば間違いなく民主党は自壊する。共産党や社民党は論外として、政策立案能力のディメンションが自民党と変わらないのであれば、民主党の存在理由はなにもない。一つ穴の狢ではどうにもならないではないか。しがらみや既得権がものを言ってなかなか物事が決まらない間接民主主義のまどろっこしさに、小泉純一郎はひとつの解決法を試みた。民主党の代表に求められているのはそうした発想の転換であり、大胆さである。政権交代可能な二大政党制をめざすのであれば、菅直人を窓際へ追いやるぐらいのエネルギーがなければならない。生臭さと勘の悪さは政治家に鬼門である。(敬称略)

 太田さんへ
 掲示板をお読みだとか、恐縮です。二日ほどサーバーが落ちていたようです、悪しからず。頭の文章は民主党への叱咤激励であり、私を含めた「IQの低い層」への警鐘です。ですぺら通信へ載せたのですが、あなたにお読みいただきたいので、若干手を加えてこちらへ転載します。
 マッチョの街明石と異なり、東京は右を向いても左をみても知識人ばかり、権力者に対してポジティブな評価をすることは、自分の知性を下げるとでも言わんばかりのインテリ評論家のオンパレードで当惑させられています。「具体的なことは何も分からないけれど小泉首相のキャラクターやリーダーシップを盲目的に支持するIQの低い層」のみなさんが世の中を動かしているのですがねえ。IQの低さにおいては私も人後に落ちっぱなし、だれかさんの唱える「草の芽保守」を逆手に取っているつもりなのですが。
 前原誠司さんが「民主党を闘う集団に作り替えてゆく、その一言のみ」と夕方の記者会見で述べていました。戦争中の隣組のような勇ましいお言葉なのですが、鬼畜米英ではあるまいし、なにとどう闘うのか、詳細はこれから思案なさるらしい。マニフェスト同様、抽象的思索が民主党は不得意のようです。私は「具体的なことは何も分からない」のですが、抽象と聞いただけで下腹部がもぞもぞ致します。
 「ポジティブな評価」と書きましたが、私も自民党に対して先入観は持っています。それも著しく悪しき先入観です。しかし、小泉純一郎というひとは、自民党の小泉でなく、かと言って小泉の自民党でもなさそうです。とりあえず、小泉ありきとでも申しておきましょう。そして、この「とりあえず」に奇妙な引っかかりを覚えるのです。「奇妙な引っかかり」とは党人を超えた個を強く感じさせる部分なのです。個を論じるに一切の先入観は無用です。彼の出処進退を振り返るに、ひとの存在が新陳代謝であり、理念の大略は過度的なものだとの思いが伺えます。言い換えれば、利己主義、享楽主義、無気力などとアクティブに向き合おうとする姿勢が垣間見られるのです。政治家相手に用いる文言ではないのですが、ある種のニヒリズムが漂っていそうな、そんな感じがしてならないのです。その一点だけでも、あなたとなら朝まで激論になることは請合い、もっか互いに困窮しておりますが、それも新陳代謝、過度的なものでございます。大酒を呑める日を楽しみに致しております。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月16日 00:39 | 固定ページリンク




薫子 | 「でぶ大全」出版記念会

 この掲示板でも度々書き込みして下さる高遠弘美さんが訳された
「でぶ大全」(ロミ&ジャン・フェクサス著、作品社 定価2800円)が
上梓されました。
『人類が愛してきた魅惑のでぶの歴史 ダイエット全盛時代に挑戦する、
でぶ讃歌! 珍品図版200点収載!』(帯より)
読めば「でぶ」であることに誇りを持てます!?

これを祝しての宴会をですぺらで催されます。
日時は9月22日(木)、19時より。
会費 男性5000円、女性4000円。間の方は4500円。
どなたさまでも、参加歓迎いたします。



投稿者: 薫子    日時: 2005年09月16日 19:41 | 固定ページリンク




薫子 | 山本六三銅版画展

 展覧会のお知らせです。
高輪の啓祐堂ギャラリーにて「山本六三銅版画展 銅版画挿絵と本の世界 」が
催されます。

『山本六三没後初の展覧会となります。
書物に寄り添う銅版画の世界を掘り下げて行った作品と
初めて公開されるバタイユ「眼球譚」の挿絵ヴァリエーション、
アトリエに残された「大天使のように」の装釘案資料や銅版画下絵、原版等、
貴重な作品と資料を多数展示。銅版画は一部販売いたします。』(案内状より)

2005年9月19日(月)~10月3日(月)
1:30pm~7:30pm 水曜定休
啓祐堂ギャラリー 東京都港区高輪3-9-8 高輪インターコート1F
         電話 03-3473-3255
         http://www.keiyudoh.com/
         都営浅草線高輪台駅下車3分・JR品川駅下車10分



投稿者: 薫子    日時: 2005年09月16日 19:56 | 固定ページリンク




薫子 | ミステリの中のゲイ・テイスト by 須永朝彦

須永朝彦さんの朝日カルチャーセンター新講座のお知らせです。
今回のお題は「ミステリの中のゲイ・テイスト 探偵小説と同性愛」。

「エドガー・アラン・ポーの創始に成る探偵小説(detective story)は、その後、本格推理物を軸に次々と新分野(ハードボイルド、警察刑事物、スパイ物、サスペンス・スリラーなど)を開拓し、呼称もミステリと変じて、益々隆盛を誇っているようであります。160年余の間には社会理念や風俗習慣にも相応の変遷があり、当初はタブー視されていた題材も採用されるようになりました。ホモセクシュアルもその一つで、1940年代まではまず採り上げられる事は稀でしたが、第2次世界大戦後は果敢に挑戦する作者が現れ、単に犯罪動機として採用するにとどまらず、遂にはゲイの探偵を主人公とするシリーズまで登場しております。そんな変遷を踏まえながら、ミステリの中のゲイ・テイストについて、いささかを申し上げる所存であります。」(案内チラシより)

1 10月20日 欧米編1 ゲイの探偵&調査員--バクスト、ハンセンなど
2 11月17日 欧米編2 凄腕の女流作家たち--ハイスミス、レンデルなど
3 12月 8日 欧米編3 様々なる意匠--フェンリー、ホワイト、ナーヴァ
4 12月15日 日本編  やっぱり乱歩?--江戸川乱歩、濱尾四郎など

日時 木曜日 19:00~20:30 全4回
受講料(税込み) 会員 10920円  一般 13020(入会金不要)
場所 新宿住友ビル 48階 朝日カルチャーセンター(申し込みは4階受付)

問い合わせ先 朝日カルチャーセンター
       163-0204 新宿区西新宿2-6-1 電話 03-3344-1945
       http://www.acc.web.co.jp



投稿者: 薫子    日時: 2005年09月17日 02:47 | 固定ページリンク




薫子 | 小さな猫の展覧會、矢吹申彦

ですぺらのお客様、画家の矢吹申彦さんの個展が催されます。

画報『猫づくし』刊行にあわせて
「小さな猫の展覧會、矢吹申彦」
2005年9月28日(水)~10月8日(土)
11:00am~700pm 会期中無休
初日夕5時から小さな猫の宴あります。

福原画廊  東京都中央区銀座7-5-15 銀座蒲田ビル2F
      電話 03-3289-1710
 
猫好きの皆様、覗いてみてください。



投稿者: 薫子    日時: 2005年09月17日 02:57 | 固定ページリンク




愛信 | 今日から明るい日本建設の日まで

今日の株式ニュース

総選挙の投票で有権者の半分以上が郵政民営化反対票、
しかし、自民党の大勝利に広がる政治不信と
経済無策で低迷の東京市場。

6793 山水電
8% 3円 41円、株価異常銘柄速報配信


投稿者:新潟平野

今日から明るい日本建設の日まで

ーー引用開始ーー

だれもまさかと言うだろう
だれももうだめだと言うだろう
だれもあきらめたほうが良いと言うだろ
でも、大勝はごまかしのデマ宣伝の結果
でも、大勝はごまかしのデマ宣伝の結果
脅迫と、懐柔、
脅迫と、懐柔、
金と権力
金と権力
そんなものに乗った代議士がいつまで続くか
冬を前にして雪囲いのない家
雪が降る前の物干し竿
なにも用意がなく
主人のためでなく
風で吹き寄せられたごみの山に過ぎない
今、日本んは悲しみの中
亀さん、綿さんに助けを求める声が聞える
山から、野から、町から、村から、島から
本気で立とう、
本気で立とう、
自分のこととして、
明日を考えることを始めよう、
日本が泣いている
日本が悲しんでいる
悲しみのすすり泣きが大きくなって
悲しみの涙が大きくなって
大衆が亀さんを、綿さんを先頭に立てて
立ち上がって
明るい日本を作る日が来るまで君は
明るく働き、
明るく信じて
その日に備えようではないか、
じっと耐えて、その日を
その日を
じっと耐えて
その日を君と作ろう、
その日をみんなで作ろう

ーー引用終わりーー

掲示板亀井静香勝手連より
http://6258.teacup.com/newjolly/bbs

実践株式情報
http://www.aixin.jp/AJI01.htm



投稿者: 愛信    日時: 2005年09月18日 21:20 | 固定ページリンク




一考 | 六者協議

 六者協議で共同声明が採択された。北朝鮮の核廃絶も軽水炉の提供も具体的スケジュールがなにも示されない基本原則のみの合意であって、約束されたことは北朝鮮に対する韓国の二百万キロワットの電力供給と第五回協議が十一月に開催されるとの二点のみ。
 北朝鮮は間髪を入れず、軽水炉の提供があってはじめて核兵器および既存の核計画の放棄が交渉の対象たりうると明言した。軽水炉が稼働するまでは現在稼働中の黒鉛炉を停止せず、核兵器は造り続けられるわけである。また、黒鉛炉を止めることによって生じる二十万人の雇用問題にも責任を取れという。ちなみに、二百万キロワットの電力供給も軽水炉も応分の負担が日本に求められている。
 日朝の部分は「平壌宣言にしたがって、不幸な過去を清算し懸案事項を解決することを基礎として、国交正常化のための措置をとることを約束した」となっている。わが国の解釈だと「懸案事項」に拉致問題が入るのだが、それが「前提」ではなく「基礎」になったところに大きな問題がある。字義どおりに解釈すれば、拉致問題が解決しようがしまいが、国交は正常化しなければならない。しかも国交正常化は多国籍間の協議の結果であり、二国間の懸案事項の解決に優先する。韓国の南北協調路線は加速され、わが国に対する中国、韓国、北朝鮮からの圧力は増大する。今回の声明によって、中国と韓国は日米のあいだに楔を打ち込むのに成功した、謂わば中韓の罠に嵌められたのである。はなしはそれで終わらない、声明にいう「適切な時期」が米朝双方で噛み合うはずがない。早晩、声明は崩壊するのではなかろうか。日米と中韓朝の対立の激化によって、新たな火種を抱え込むことになるのではなかろうか。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月20日 16:36 | 固定ページリンク




一考 | オブローモフ気質

 友から当掲示板はアナーキズムの掲示板だと言われた。それでも一向に構いはしないのだが、やはり虚無思想の掲示板と言われた方がなんとなく座りがいい。なにしろ号して「ですぺら」である、されば拗者の苦笑いをひとつ。

 ひとの性格、気性、ものの考え方、好悪の類いは年齢もしくは存在する環境によって、いかようにも変化すると私は思っている。自らを顧みて、ひとほど当てにならないものはない、生存は著しく不安定なものだと信じるに至った。その辺りの消息をF・ヤコービやニーチェ、ツルゲーネフ描くところのバザーロフやシェストフ、または辻潤や金子光晴はうまく著している。しかし、私は辻潤でなければ、バザーロフでもない。下手を承知で、拙悪を覚悟で、自らの思いを書き綴るしかない。
 変化すると書いたが、「かならずしも」すべてが変わるわけではない、事と次第によってはいっかな反応しないこともある。ひとの生や行為にあって、「かならずしも」因と果が直結しているわけではない。時として因と果は複雑に絡み合い、重なり合うように入れ子構造をなしている。副詞の「必ず」に助詞の「しも」を付けて「必ずしも」なのだが、その意は一部分はそうであっても、全部がそうではないということになる。部分が変わるからと言って、全部が変わるわけではない、その曖昧さ、及び腰を指して「当てにならないものはない」と書いたのである。
 さて、変化するのであれば、反応するところの元ネタがなければならない。この場合の元ネタとは生来の気質のことなのだが、私は稟質とのことばが大層気に入っている。ただし、同じことばを用いていると飽きるので、たまに刷り込みとかインプリンティングの類いを用いる。そんなある日、宇野さんから「文化的先天性」でいいのではないかと言われて、すぐさま飛びついた。築地東仙の文化干しを持ち出すまでもなく、文化鍋・文化包丁等々、東京下町のハイカラな匂いが感じられるではないか。常日頃、宇野さんから私に相応しいのは文明であって文化ではないと言われている。シュペングラーに言わせれば、誕生、成長、衰亡、死の過程を経て、文化は最終的に文明になる。謂わば文化のなれの果てが文明なのであって、それこそが「西洋の没落」であると説く。
 この「なれの果て」がまたしても私の琴線に触れる。なれの果てとはとどの詰まりであり、落ちぶれはてた結果である。では、その結果がやって来るまではどうだったのか、過去に思いを致せば、夢と願望が綯い交ぜになって洪水のように押し寄せてくる。私のことだから、事実関係は眼中にない、それでなくとも「歴史的現実のなかから世界観が生まれるのだが、その世界観は常に歴史をつくりかえていく、だとすれば歴史には事実とか真実といった客観性は存在しない」のである。私が財閥の御曹司であろうが、神々の貴種流離であろうが、まるきり構わないのである。この先を著せば、見てきたような嘘をくわしく述べることになる、それは既に文学であって果てがなくなる。従って宇野浩二に倣い、閑話休題とする。

 ニーチェが考証の対象にしたのは、プラトン主義の大衆バージョンであるキリスト教とその道徳観である。肉と霊、此岸と彼岸、自由と摂理といった二元的な差別と乖離がそのまままるごと秩序になるような一神教の世界である。世界の階層的な差別の頂点に神が君臨する以上、いっかな二元的な分裂であれ、究極のところで統一されるとの脳天気なものの考え方にニーチェは危惧を抱いたのである。もしも、神が死ねばあとに残されるのは差別だけではないかと。
 ここまではニーチェの美点なのだが、ことさらにニーチェを論じたいのではない。私が触れたいのは伝統的権威、政治社会上の諸制度、宗教などを否定し排斥する傾向についてである。しかし、そのような傾向を歴史的転換期の現象と位置づけるひとがいる。ニヒリズムに取り憑いて離れない利己主義、享楽主義、無気力などにやましさを感じる人種といっても構わない。利己主義は鶏卵のカラザのようなもので、取り去ると黄身は位置をなくして宙に浮いてしまう。そういえば、生たまごを食するときに、カラザを取り除こうとして必死になっているひとをよく見掛ける。あれは白色不透明糸状のカラザと闘っているのか、箸と闘っているのか、それとも卵白と卵黄の両端を結ぶ放物弁証法と闘っているのか、もし後者だとすれば、鶏卵の秩序を排斥しようとしているのであって、これもまたニヒリストということになる。まあ、それもどちらでもよろしい。
 「歴史的転換期の現象と位置づけるひと」の多くは既存の価値体系の崩壊を背景にして、新たな価値選択の原理を見いだそうとする。しかしながら、それでは自らが神に取って代わるまでのはなしである。多くのニヒリストがファシストに化けた例は歴史上、枚挙に遑がない。ベンやニーチェにしてからが、価値体系の崩壊それ自体を克服しようとして超人思想を打ち立てた。それも彼らの勝手で、私の知ったことではない。ただ、ニヒリズムに至る遠因が、社会的な困窮状態や生理学上の変質や心的困窮などではなく、「一つの特定の解釈、つまりキリスト教的、道徳的な解釈」であるとするのではお粗末に過ぎる。あまりにも長く「特定の解釈」に信を置き続けたのはドナウから西の人々だけではなかったか。ニーチェが説いたのはギリシア文化を範とする芸術的哲学だが、同時代のマゾッホが念仏のように唱えた「ギリシア人」をいかように読み解いていたのか、物見遊山の私には大いに興味がある。
 種村さんの影響なのだが、ヨーロッパ近代社会やキリスト教文明の根底に対する否認の思想を説いたマゾッホと、無や空を主張する仏教や老荘思想と同質のものを西洋文明のなかに探し求めたドゥルーズとのあいだには、とんでもなく大事な共通項があるような気がしてならない。ちょいと難しく書けば、畸型や倒錯の内部に身をひそめて、無償の遊戯を、饒舌をこばみ、まるで緘黙症患者のように稀薄な言葉でもって「否認と宙吊りの過程」を著す、と言ったところであろうか。先の書き込みで触れた「利己主義、享楽主義、無気力などとアクティブに向き合おうとする姿勢」がここにもあるように思う。そして、それは東邦の思想であり、苦行僧のような趣があるといってもなんら差し支えはない。「アクティブ」と「苦行僧」はその主体の積極性において通底する。
 取り留めがなくなってきたようだが、ニヒリストがニヒリストであり続けることの困難を私は強調しているのである。出自のせいか、私の回りには拗ね者やつむじまがりが多かった。しかるに、二元論を武器にして多勢はファシストへと転向していった。この場合の二元論とは好悪そのものであり、好悪の基本原則に則って否認の対象から自分を除外したに過ぎない。新たな価値体系の探求といえば聞こえはいいが、超克とか克服とかの素面は以外と簡便な二者択一もしくはお手軽な弁証法的統一だったりする。
 変化しつづける自分、当てにならない自分、著しく不安定な自分、ひとは皆さまざまな性質を内包している。個々の異質性や多義性を大切に思うなら、個の内にある異質性や多義性にも目配りが必要になる。好みや趣味で自らを律しては、自分のなかに潜む多種多様な価値観を遠ざけてしまうことになる。そのような危機感を覚えたとき、ひとは出発点に、ニヒリズムの「元ネタ」に立ち帰らなければならない。元ネタとは先項の「利己主義、享楽主義、無気力」などである。ひとのなかで最も変わりにくい部分、そこに、「無気力」がどっかと腰を据えている。そう考えれば、無気力にどっぷり身を浸せるのは「文化的先天性」そのものでなかったか、と思われてくる。もしも、この世に才能というものがあるとすれば、無為徒食や意志弱行を除いてなにがあるのだろうか。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月20日 23:09 | 固定ページリンク




一考 | そして神戸

 太田守さん・ムーンさんへ
 十月の九日と十日の二日間、父の遺品を整理しに神戸へ帰ります。八日に店が終わり次第、1号線を京都まで、あと所用があって372号線を西へ進み、175号線から明石へ出ます。九日の夜は来住さんへご挨拶の予定、その折りにお会いできればと思っています。それと貴方のメールアドレスをご教示いただければ幸いです。当方のメールアドレスは一行開けて下段です。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月29日 13:13 | 固定ページリンク




一考 | すき焼きパーティー

 高遠弘美さん、石井さん、りきさん、盛大なパーティーをありがとうございました。みなさま方のご厚意によって、ですぺらをもう少し続けられたらと願っています。
 「プライベート・プレスに春は永遠にやって来ない」とどこかで著しましたが、プライベート・プレスに限らず、世の中は苛しいものでございます。
 つきましては、三日の月曜日七時から、久しぶりのすき焼きパーティーを催したく思います。ご迷惑を承知で、みなさま方のご好意におすがり致したく、どうかよろしくお願いします。
 戸籍上での男子四千円、女子三千円、アルコール無用の方は千円引きでございます。

 今月の悪戯書きは無事に終了したのですが、花の句の解釈という飛び込みの仕事で今週は追われています。このところ、ずっと早い時間から出勤してきたのですが、来週からは私も六時の二時で定時出勤致します。それに合わせて営業時間も六時の二時に再度改めさせていただきます。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月29日 14:08 | 固定ページリンク




高遠弘美 | 一考様

 こちらこそありがたうございました。お蔭ですこぶる愉しい会になりました。三日は夜学が和泉校舎であり、伺へないかもしれませんが、ご容赦ください。
 拙ブログへの周さんの書き込みで、今さらながらに感激したのが、岩崎力「ヴァルボワまで」を作られたのが一考さんだといふことです。あの本は大切な本です。いまもときどき読み直します。一考さんを仰ぎ見る瞬間です。感謝を込めて。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2005年09月30日 09:42 | 固定ページリンク




←前月「 2005年08月」 | メイン | 「2005年10月」次月→

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る