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一考 | らっきょの皮むき

 『澁澤さん家で午後五時にお茶を』(学研M文庫)を読んでいて、巻頭に気になる文言を見付けた。

 「一般に表現活動に従事する人間は、軽微の、あるいは重傷の二元論に冒されている。彼の内部と外部、影と光、過去と現在との間には調停し難い落差があり、その対立物の葛藤から作品世界が形作られているので、葛藤を形成する主要な原型的モチーフを洗い出せばそこから作家の全貌が窺い知れるだろう。しかるにこの場合には、当の葛藤が存在しないのである。つまり、二元論がきれいさっぱり欠如しているのだ。したがって、澁澤龍彦はしばしば『白痴的』に見える」

 「二元論がきれいさっぱり欠如している」とは痛快きわまりない指摘だが、その伝でいけば、種村季弘は「二項対立を体現する両義的・媒介的性格」を具えたひとということになる。と書くのは易しいが、この間の消息は難儀である。「きれいさっぱり欠如している」といわれて「ああ、そうですか」とうなずけるものではない。そもそも、いくら気質に恵まれているからと言って、まったく葛藤のない人間なんぞいるのだろうかといささか心配になる。

 柿沼裕朋さんは種村季弘論のなかで、種村さんが生涯こだわり続けたテーマに、詐欺師、言葉、無意味、影法師、錬金術といった実態がないものと怪物、ねじれ、畸形、水、まどろみといった無垢なるものがある、と指摘する。柿沼さんが言いたいのは、虚無的な種村季弘と、虚無主義に徹しきれない種村季弘とのあいだに葛藤があったのではないか。その潔しとしない部分、未練がましさにこそ、種村季弘と澁澤龍彦との違いがあったのではないかと言うのである。柿沼さんの文章はつづく、

 「(種村さんは)人生は不確かで無意味であるという考えをきっぱりと割り切って受け入れることが出来なかったようだ。戻られないと解っていても、幼年期の、自己同一崩壊以前のまどろんだ状態を渇望していた。言い換えれば、世界と主体が混然一体となり、外殻を不死身甲虫に守られた安全地帯のなかで、何もしないでぶかぶかと無力で浮いていたかったのである」

 この辺りからは柿沼さんの独断場である。漱石以来続いてきたわが国近代文学の宿痾とも称すべき「自己本位」などというしみったれた文学の乾枯した殻を蝉脱せんとしたところに、澁澤龍彦の、種村季弘のおもしろさがあるのだが、その構造を柿沼さんは知悉している。
 種村さんがいう「澁澤龍彦の気質」は種村自身にとって大きな憧憬であると同時に、越えねばならない障壁でもあった。種村と澁澤というまったく異なった作家において、共通項がもしあるとするならば、おそらく二元論からの解脱だったと思われる。二元論からの蝉脱に澁澤さんは両義性を、種村さんは自己同一崩壊以前のまどろみを器官射影として携える。器官射影とは内なる機構の外の世界への置換である。

 種村さんの『書物漫遊記』が上梓されたのが1979年1月20日、澁澤さんの『玩物草紙』が上梓されたのが1979年2月25日である。共に骨法は小説、偶然とは言え、おなじ時期に創作の世界へ大きく足を踏み入れることになる。言葉による観念の解放を試みるひとにとって、自分自身は玩弄の対象にこそなれ、検閲の対象にはならない。「草紙=喪志」との語呂合わせめいたタイトルがその間の消息を物語っている。他方、種村さんは澁澤の小説について「人の世は夢、夢のまた夢のカルデロン風の建造物は層をなしてつみ重なる。けれども材質が夢であるからには、いくらつみ重ねても男根状に聳立することはない」と著している。
 同時期の種村さんに「夢」または「夢記」と題された掌編小説の連作がある。島尾敏雄や井伏鱒二や澁澤龍彦のそれと同じくトートロジックな重語法で小説の原器的形態を表出した作品で、タイトルに相応しく内容的な実体はなにもなく、言葉の現実による記述に終始する。「夢」とあるからには当然で、二元論的緊張が不気味なほど欠如した、謂わばらっきょの皮むきのような作品なのである。澁澤さんの「高丘親王航海記」を「自由意志の羅針盤をうしなって偶然の洪水の只中をひたすら受け身のままに漂う」作品と評した種村さんが「自己同一崩壊以前のまどろみ」を著したといえようか、ただしその場合、「偶然の洪水」を「逆理の洪水」に差し替えなければならない。そして柿沼さんの種村論もまた、トートロジーの輪のように種村季弘のまわりを漂い続ける。マゾッホ、ドゥルーズ、澁澤龍彦、種村季弘、そして柿沼裕朋とつづく文化的先天性に着目したい。反転、転位、顛倒、仮装、弁証法的分裂といったソフィスト的技法の駆使にあって、出来合いの中身や内容といったものは夾雑物に過ぎない、内容のなさにおいてあらゆる事象は等価になるのである。

 「がらんどうとまどろみという永劫の乖離は種村さんのなかに複雑な屈折をもたらした。空虚と無垢なる状態への引き裂かれた願望とそこから生じる屈折がいくつもの入れ子をなして重なりあい、目に入る世界のさまざまな現象や物質を巻き込み作り上げられていく迷宮。そうした幾層もの屈折が、一筋縄ではいかない種村ラビリントスや百面相ぶりを生む一つの要因であったと思う」(引用はすべて「迷宮タネムラの解剖学」より)

 柿沼裕朋さんの種村季弘論「迷宮タネムラの解剖学」は平凡社の「月刊百科10月号」に掲載される。発売日は9月25日、ご購読をお薦めする。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月09日 20:18 | 固定ページリンク





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