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2006年09月 アーカイブ

薫子 | サウンドトラック・フロム・ブラバン

津原泰水さんの新刊『ブラバン』の上梓に合わせて、イベントのお知らせです。

来る九月十七日、赤坂ですぺらにてブラバン発売記念イベント
『サウンドトラック・フロム・ブラバン』を開催します。
会場が狭いため、先着三十名の申し込み制にさせていただきます。

日時  九月十七日(日)十九時~

料金  ソフトドリンク+食事 三千円 または 飲み放題+食事 五千円

どちらのコースでもキャッシュ・オン・デリバリーにて、ですぺらの豊富なドリンクメニューからウィスキー等の注文をしていただくことも可能です。

内容は

ラヂオデパートによる演奏
著者自身によるDJタイム

なお、今回のイベント向けに版元のバジリコ様が、
『ブラバン』を先行販売してくださることになりました。
読了後いらっしゃるほうが『ブラバン』の世界にいっそう浸れること請け合いです。
希望者は、住所氏名を明記して、合わせてお申し込みください。

申し込み先は
amane3110@mail.goo.ne.jp

となります。



投稿者: 薫子    日時: 2006年09月01日 04:28 | 固定ページリンク




一考 | トラブルです

櫻井さんへ
カッキーさん家のパソコン(G3ベージュ433)で質問です。
画面上にmac-boot……のコードが現れて立ち上がらないのですが、これは慣れたもので、問題なく解決。と思ったのですが、コードは消えたもののやはり立ち上がりません。
そこで三台の内蔵ディスク(Maxtor)をはずしてチェックしました。システム・ディスク(20GBをパーティーションで二つに)はなんの異常もなかったのですが、アプリケーションを入れた二台のディスク(20GBと40GB)が応答なし。「応答なし」の意味内容はマウント不可能と読み込み不可能の二点です。
システム・プロフィールでハードディスクの詳細を調べるとドライババージョンが白紙になっていました。
拙宅のハードディスクのドライバはATA Bus 3.3もしくはB'sCrew Exte 3.1.8のどちらかになる筈なのですが、そのドライバが消えてなくなったのです。
面倒なので、初期化してアプリケーションをコピー、元に戻りはしたものの、ドライバが消えた理由は分かりません。
他にDVDドライブとPCカードが二枚(ATA128とUSB)内蔵されています。まさか電圧が理由ではないと思うのですが、なにかしらご存じのことがあれば、ご教示願います。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月01日 20:32 | 固定ページリンク




一考 | わが最愛の……

 ウルグアイ原産のパイプ葉を使ったフィルター付き紙巻タバコ「アーク・ロイヤル」が私の好物である。タール 分 18mg、ニコチン分 1.4mgの白地の箱のアーク・ロイヤルである。ただし、好きだからといって普段から喫んでいるわけではない。理由は値が高いからである。
 神戸の元町一丁目に杉本酒販というモルト・ウィスキーと葉巻煙草の専門店がある。最初はオールド・フェッターケアンとタリバーディンのスティルマンズ・ドラムで知り合ったのだが、話し込むにつれ、葉巻のとんでもないプロだと分かった。かなわないひとには逆らわない、黙って教えを請うのが一番である。
 杉本酒販には葉巻紙巻きパイプタバコ総計七百種類を超える商品が揃っている。一度にすべては味わえないので、四年ほどかけて手ほどきを受けた。私はパイプタバコが好きなのだが、仕事中にパイプは嗜まれない、そこで葉巻講座の傍ら、啣え煙草が可能なパイプ葉を使った紙巻タバコを所望した。ご教示いただいた十数種のなかで、もっとも気に入ったのがアーク・ロイヤルだった。パイプ葉を乾燥させるときの黒砂糖の使用量が少ないのであろうか、甘味が抑えられている分、喉にやさしく暖かい印象を受ける。
 しかし、パイプ葉を用いているので、匂いには癖がある。癖があっての嗜好品なのだが、店は半ば公共の場でもあり気が引けるので、癖のない洋モクを吸っている。その場合、煙になればなんでもよいので、手当たり次第である。その対象が最近キャスターマイルドに変わった。理由は十円安いからである。
 そのキャスターマイルドの吸い口に金色の丸いマークが付いているのだが、薄暗い店ではそれが鼻くそに見える。と言うのも、私は幼少期から肥厚性鼻炎で難儀してきた。従って、ひどい時には一箱のティッシュペーパーが数時間で空になる。その代価も馬鹿にならないので、専らロールティッシュを利用する。鏡花ではないが、紙に対する畏敬の念から、我が家ではロールティッシュとの呼称を用い、トイレットペーパーとは呼ばないのである。近頃のロールティッシュはエンボスが施され二重になっているのでトイレでなら五十センチもあれば用が足せる。大半は鼻くその梱包用紙として重宝されているのである。
 ロールティッシュの頌を書いているのではない、鼻くそと私が切っても切れない関係であるという道行を語っているのである。鼻孔を占居する鼻くそは私の最初の連れ添いであって、肥厚し桑実様に肥大した粘膜の隙間から途切れとぎれに吐き出される呼気と水鼻は歓喜にむせび泣く物憂き響きとしか聴こえないのである。誤解を虞れずに申せば、鼻くそを除いて私の人生なんぞ考えられない、文字通り「鼻くそのような人生」を送ってきたのである。
 ある日、親しくしている医師から君の症状は鼻アレルギーだから、二週間酒を断ってみろと言われた。不思議なことに症状はなくなり、件の医師は血管運動性鼻炎だと私に告げて立ち去った。しかし、私から鼻炎を取上げれば、私の人生そのものが無くなってしまうのである。第一に、塩水の蒸気を鼻に突っこまれた小学生の頃は酒とも花粉とも縁がなかったのである。論理的矛盾性はどうなってしまうのか。一昼夜、寐もせずに考え倦ねた私は、死ぬ日まで酒を飲み続けることを決意した。余生は鼻くそと共にあり、それがわが鼻くそへの慈悲であり、アガペーではなかったかと。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月04日 23:36 | 固定ページリンク




一考 | 

 中学校を出てバーで働いたのだが、何事に寄らず規制を受けるのが嫌だった。黒の上下に蝶ネクタイの装束(いでたち)が我慢ならず、愚図っていたところ、一番奥のカウンターから声が掛かった。「嫌なものは仕方ないけん、こっちゃで賄いでもやれ」声の主の角田さんから三年間、洋食と喧嘩の基礎をみっちり仕込まれた。
 実は彼とは中学一年生のときからの付きあいである。福原でも名うての武闘派(やんちゃん)で、その道のプロからも一目置かれる角田さんに喧嘩を売り、一撃で伸された記憶がある。弟子入りしてから聞かされたのだが、空手四段とのことであった。
 薫子さんが目を丸くしているが、ブロックの肉を百五十グラム、二百グラムと言われるがままに狂いなく切り分けられるのは彼の仕込みである。一本の食パンを四ミリとか五ミリとか指定通りにしかも正確に直角に切り揃える、余所見をしながらキャベツのせん切りが刻める、両手にフライパンを持って異なる具材を同時に炒められるようになったのも、彼のしつけの賜物である。
 私は妙な精神主義が子供のころから大嫌いである。彼はそれを承知していた、しかし「気合いじゃけん」「気合いが入っとらんけん」とはよく言われた。それは調理で怪我をするなとの注意であり、そのための掛け声であった。沸騰した湯や飛び散った油が手に掛かるのは毎度である。それを気にしていては仕事が捗らない。そして気合いが入っていれば百五~六十度の油に指先が二~三センチ入っても火傷をしないのである。あれは掛け声というよりは呪文のようなものだったのかもしれない。
 三年後、彼は「教えることはもう何もないけん」と言って、隣の割烹の板長だった石田さんを私に紹介した。それからの六年間、さまざまな地魚や前物との格闘が続くのである。

 そんなことを思い出したのは、昨日、右手にボタンほどの火傷を負ったからである。私は自分の身体が火傷をするなどと思っていなかったのである。油が飛んだのは知っていたが、捨て置いて問題なしと信じていた。それが翌日には水ぶくれになったのである。いくらなんでも水ぶくれは恰好がよろしくないので、皮膚を包丁で切ってバンドエイドを張った。しかしながら、どう思案しても気持ちの整理がつかない。
 またまた、薫子さんが目を丸くして「あら、嫌だ、老人になったのね」。彼女に言わせると、皮膚が油を弾かなくなって、油を吸い取ってしまったらしい。火傷の主たる要因は皮膚が皮膚自体の油分を失い、枯れてしまったところにあるらしい。それを端的に表現すると「爺」なのだそうである。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月05日 22:37 | 固定ページリンク




一考 | 塵芥賞授賞式

 プヒプヒさんとりきさんのご参加を得て、第一回塵芥賞の授賞式を拙宅で催した。平井功の編集にご協力くださった六名と管理人二名、それと私たちの十名である。「ラム」の肩ロース・ステーキを主とする焼き肉パーティで、約二名の食らひ抜け、おっと失言、大食らいの方がいらしたが、なんとか量は足りたらしく安堵している。みなさん、ありがとうございました。
 平井功にとどまらず、稲垣足穂におけるプヒプヒさんの活躍には目を見張るものがある。先日、足穂の年譜に「卓識精到」との文言を用いたが、あれはプヒプヒさんの為事に対するオマージュであった。よき友を得たと感謝している。
 席上述べたことだが、実は彼との接点を得るに私はいささか時を要した。難渋の内容を述べれば、デジタル回路の一言につきる。彼の思考がデジタルだと言っているのではない、彼の会話法がデジタル方式なのである。書物のはなしをするに、趣味、趣向、嗜好の類いが前面に躍り出てくる。念のために申し添えるが、彼は決して好悪にとどまらない。好悪の基いとなる近接、熟知、類似、相補などという概念(意味内容)をどんどん掘り下げて行くのである。一方、私は分析は苦手で、零でもなく一でもない割り切れないもの、未分化なものへの思いが強い。対象たる書物から逸脱して行く著者の影や分身のようなものに気もそぞろなのである。
 私がデジタル的物言いにこだわるのは、ひろくウェブサイトを表現の場とするひとには自己中心的なひとが多いからである。その自己中心性に対して私の防禦本能が働いたとでも言っておこうか。齢を重ねると悲しいことに、そうした拒否反応ばかりが強くなって行く。だからこそ、彼が平井功訳詩集を造りだしたときは驚いた。彼にとって平井功はまったくの赤の他人である。面識もない第三者のために財を投げ出すのである。ひとを見る目がないと薫子さんから言われ続けてきたが、そのとおりであった。彼はさらに「驕子綺唱」を造ると言う。ことここに到っては何をか言わんやである。かなわないひとには逆らえない、いっそ剃髪して弟子入りしようかと思っている。

 もうひとりの「某」同人の土屋さんから「『某』という雑誌の名前は、誰でもあり、誰でもないもの、揺るぎない自分というものなど信じない、そうした精神の動きこそ『文学』なのではないかという思いで付けました」とのメールを頂戴した。忝い言葉であって、プリントアウトして書斎に掲げておこうと思っている。
 かつて「胡桃の中の世界」について「入れ子のテーマによって惹き起される眩暈(めまい)について執拗に触れている。絶対的な存在、または中心点といったものを否定し、世界はまったく同質にして同価値の諸部分から構成されている。言い換えれば、一切の比較とアイデンティティをほうり出した思索者の姿がここにある」と書いたことがある。
 澁澤氏が好んで用いた入れ子構造であろうが、伸縮自在であろうが、相互嵌入であろうが、何だって構わない。搖れや振れ、迷いや逡巡、低回や彷徊、いっそ揺蕩いが貧乏揺すりであっても構やしない。ただただ、戦ぎ揺らめき続けることが大事と思っている。
 子供にあっては好悪に基づく行動が端的に示されるが、大人になるとそう単純明快には表明されなくなる。と言って、その理由が社会的な規制や利害関係による制約からくるものならば、単なる不幸としか言いようがない。ああでもないこうでもないと考え込むのは単純なことがらを複雑に、明快なことがらを昏迷に、謂わば自らを溟海に追いやることになろうか。しかし、それは自分自身への抗いの結果であって、千編一律な凶事ではない、類推の効かない個としての不幸である。
 塵芥賞は、かかる負を意図して背負ってしまったひとの才気をさまたげ、足を掬うために設けられた。もとより、精神錯乱の発作で母親を刺し殺した姉メアリーのために生涯独身を決意するも、いつも駄洒落を考えるのを楽しみにしていた「ラム」を肴の授賞式である、塵芥賞がなんの役にも立たない賞であることは言うまでもない。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月07日 22:12 | 固定ページリンク




防犯・防諜普及会 | 北朝鮮による侵略に備えましょう。

防犯・防諜普及会

北朝鮮による侵略に備えましょう。

日本政府の動議により、北朝鮮非難の安保理決議1695号が可決しました。これに対し北朝鮮は強く受け入れを拒否しています。国際社会から孤立した北朝鮮にとって今後の進展は厳しいものとなり、局面の打開を目指して一気に軍事的行動に出てくる可能性が高くなります。国民の皆さんは、進んで国防に協力しましょう。特に開戦に備えてスパイ活動やテロ活動を強化しますので、周囲に工作員や、北朝鮮に協力しそうな人物がいないか気をつけましょう。また反政府的な言動をするグループなどが防衛行動を妨害するかもしれませんので積極的に情報を政府機
(以下、あて先明記のこと。)
内閣情報調査室
http://www.iijnet.or.jp/cao/cas/jp/goiken.html
公安調査庁
psia@moj.go.jp
自衛隊情報本部
kouhou1@joint.info-jda.go.jp
自衛隊中央情報保全隊
gsopao@jgsdf.info-jda.go.jp
警察庁警備部公安課
http://www.npa.go.jp/goiken/index.htm
入国管理局
http://www.immi-moj.go.jp/cgi-bin/datainput.cgi
政府機関への総合窓口
http://www.e-gov.go.jp/policy/servlet/Propose



投稿者: 防犯・防諜普及会    日時: 2006年09月08日 19:38 | 固定ページリンク




防犯・防諜不要不急会 | 国民のつとめ

今の日本は、不逞な公安が跳梁跋扈し、自衛隊の工作員も我が物顔で活動する、とんでもない国になってしまいました。これも占領憲法を否定する右翼勢力や日和見主義者たちのせいです。これらを排除し、本来の日本を取り戻しましょう。
国民のつとめとして、これらの活動を認めたときはマスコミへ速やかに通報しましょう。
そして反日議員や警察官の集会、スパイ活動、挙動のおかしな自衛隊員などを見かけたら以下へ情報を提供しましょう。(あて先明記のこと。)
http://www.jcp.or.jp/
http://money4.2ch.net/kyousan/



投稿者: 防犯・防諜不要不急会    日時: 2006年09月10日 00:23 | 固定ページリンク




一考 | 渦状銀河

 土屋さんの文言中「誰でもあり、誰でもないもの」は意識される側の領域規定である。「揺るぎない自分というものなど信じない」は領域規定からくる論理的結果である。「そうした精神の動きこそ『文学』なのではないか」は演繹的推理であろうか。いずれにせよ、彼から大きな刺戟を与えられた。以下は意識の中核とも言うべき自我についての与太話である。
 意識は流動的で片時も静止しない。言い換えれば、意識は移出と移入が間断なく繰り返される、従って意識する側とされる側との分布域は変化しつづける。あまりの目まぐるしさに信頼性はほとんどない。と言うよりは、意識する側とされる側とのあいだに境界線は見当たらない、と言ったほうが無難である。内燃機関における吸気弁と排気弁のような役割を担う器官を意識は持たない。役割を分担する能力が欠落しているということは、その分、多義的かつ主観的なものとならざるを得ない。主観的であればこそ、経験や行動が過不足なく意識されているとは限らない。
 当掲示板で、意識にかんする遣り取りが何度かなされたが、「意識しているから世界は存在しているのであって、意識がなくなれば世界は消滅する」「なんだかんだと言ってはみても、それを意識しているあなたがいるじゃない」というような内容で、私はなにひとつ承伏できないでいる。「あなたがいるじゃない」のあとに続く文言が「あなたがいるように私もいる。それを分かってよ」ならまだ可愛げがあるのだが、文脈はおよそ異なる。概して、意識を強調するひとは自己中心性の強いひとである。そういうひととの恋愛や友情は心すべきである。よほどの見返りが期待できないかぎり避けるのが無難である。
 まず、意識するしないと「智慧」とはなんのかかわりもない。さらに、「意識する」との行為が即そのまま主体の延いては存在の証明になるとも思われない。自意識の反語はおそらく無意識である、その無意識がいいこととは思わないが、例え無意識であろうとも存在は存在であって、無意識を理由に存在が揺らぐことはない。私に言わせれば、かつての遣り取りは下世話のはなしに過ぎない。
 下世話と称した理由は、意識するしない、もしくは意識する側される側といった二項対立式発想ではどこへも出口が通じないからである。個人によって体験され、気づかれていることを意識というが、この「気づかれていること」には著しく個人差がある。個人差があれば、当然そこには改善の余地がある。改善と書いたが、それが改悪であっても一向に構わない。要は異なるアプローチがあるということを示唆したいのである。思案に耽るときに二項対立はおよそ非効率である。どうどう巡りを楽しむならなにも言わないが、ひとの生は限られている。有効性を持たない試みなどくそったれである。
 それよりなにより、「意識する・しない」を能動的なサ変動詞と思い込むところに誤謬があるように思う。私にとって「意識する」のは受動的なはたらきであって、それ自体はなんらの結句ももたらさない。なにかを生じせしめるのは意識と共に機能する解析能力の方である。体験され、あるいは気づかれていることを読み解き、抽象化して、はじめて意識したと言えるのではないだろうか。繰り返すが、意識する自分を意識してもなにもはじまらない、意識されているところのものを推量し、いかに追体験するかに大事がある。
 「意識されているところのものを推量し」と書いた。押し測らねばならないほど、意識の対象は多義にわたる。認識には感覚・知覚・直観・思考などの様式があるが、それらを総動員したところで、意識されるものと意識されないものとの狭間を填めるのはかなわない。両者の境界を無視はできないが、識閾を僅かずつでも移動させることは可能である。非回帰移動になるところに一抹の不安はあるが、意識のはたらきを高めるのに有効な手立てではないだろうか。意識する自分を反芻し、思いを巡らすのは悪いことではない。しかし、意識それ自体の領域を拡げることに心胆を摧くのも一興である。
 識閾の移動と、移動に伴って意識の側を渦状銀河の微分回転するディスクのように改竄させられないだろうか、人工的な眩暈を作り出すために。最近はそのような由なきことばかり考えている。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月10日 00:31 | 固定ページリンク




一考 | 「総特集=稲垣足穂」出版記念パーティ

ユリイカ 2006年9月臨時増刊号 総特集=稲垣足穂(9月21日発売)
【新発見作品10篇】(資料提供=高橋信行・金光寛峯・加藤仁)
誇大妄想十一編/学生論を読みて/青谷のおち葉/桑畑のなかの村/姉さんと私/雲を消す話 /鳩座から来た人/ロング君とショート氏の話/赤と青/椿實の快速調/タルホ座新星群――稲垣足穂 新発見作品・解題/垂野創一郎
【鼎談】彼等、すなわち足穂とその眷族/加藤郁乎+松山俊太郎+渡辺一考
【対談】オマケ派宣言/荒俣宏+あがた森魚 司会=香川眞吾
【インタヴュー】「ハイゼンベルク変奏曲は、足穂さんの実験第一号だった/松岡正剛 聞き手=ばるぼら

以上だそうです。ですぺらでの出版記念パーティの日時が決まりました。23日の土曜日、秋分の日です。時間は18時から21時、会費は3000円です。
青土社の担当編集者ならびに新発見作品・年譜・著書目録の編集にたずさわったキネマの会のみなさん、東京近郊の著者も出席します。足穂に興味をお持ちの方はこぞってご参加ください。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月11日 22:09 | 固定ページリンク




一考 | バンビーについて-2

 去年の五月にながらみ書房から「ジャワ・ジャカルタ百首」を出版なさった神戸の南輝子さんが来店してくださった。その南さんが雑誌のコピーを持ってきた。題して「神戸バンビ狂い」、もちろん彼女が著したエッセイである。文中、中島らも、鈴木創士、タケウチヒロクニ、ロクサン、ワンタンが登場する。ロクサンは山本六三、ワンタンは私である。私が一考を名宣るようになったのは二十歳ぐらいからで、それまではワンタンと呼ばれていた。
 「私がジャズ喫茶バンビに溺れていたのは60年代バンビ全盛の、ジャズが世界中でもっとも輝いていた時代で、らもや創士はそれ以降の学園紛争で騒然としていたころからだから、もはや色褪せた、ジャズ喫茶ともいえないバンビでしかなかったのに、それでも彼らは狂ってしまった」
 彼女が見た創士に興味があって、それを書きたいのだが、宇野邦一さんから聞くところによると創士と私は喧嘩をしたらしい、心当たりはなくもないが、私は喧嘩をしたとは思っていない。後にわだかまりを残すのが嫌なので私は意思表示はする。と書いてもひとにはなんのことやら理解しようがない。
 「創士が……後に生田耕作といろいろあったのはワンタンと同じだ。生田耕作は頑固一徹だったのである」と書かれている。創士と生田耕作とのあいだに何があったのか知らないし、知りたくもない。ただ、喧嘩のあと、創士から電話があって、これからは仲良くしようと言われた、その発言に不名誉な欺瞞を感じたのである。私と生田との喧嘩は私と生田との問題であって、創士とは関係がない。同様に創士と生田との喧嘩は創士と生田との問題であって、私とは関係がない。「敵の敵は味方」というような鄙劣きわまりないものの考え方に私は忿怒を禁じ得ないと言ったまでで、怒りの対象は「ものの考え方」であって、創士ではない。
 ひとは歳と共にものの考え方は変化していく。怒りをひとに向けるのが逡巡われる理由のひとつである。ただし、年長者はその限りではない。文中「頑固一徹」とあるが、頑固は避ければ済むことで、対応は易しい。あの年長者は「鄙劣きわまりないものの考え方」を「文学」だと嘯くような燕石である。箸にも棒にもかからない御仁と別れて間がない創士がまだその影響化にあったとするなら、同情の対象たりえたのかもしれない。そこは私の反省すべき箇所なのであろう。
 最近の鈴木創士はいい為事をしている、紹介の機会はいくらでもある。はなしをワンタンに戻す。
 「ワンタンといえば、神戸の書肆南柯(税金対策で、当時は南柯書局と書肆南柯を遣分けていた)を廃業し東京へ移る直前、私の詩画集『美しき豊潤』を手がけてもらった。永田耕衣にほれこみ、耕衣を全国区へ押し上げた誇り高き彼は、私家版は絶対出さぬといいながらも出版してくれたのはバンビの縁である。打合わせの時、出来上ったばかりの三橋敏夫句集特装本を、恋人を愛でるように撫ぜさすりながら『押し当つる枕の中も銀河かな。ええなあ、ええなあ』と恍惚としていた。装幀家林哲夫によれば東京で酒場の亭主をやっているという。詩人の季村敏夫……の同人誌『たまや』第3号のワンタンすなわち渡辺一考による追悼種村季弘論『詐欺師昇天』を読み、バンビの隅で鬱勃たる情念をかかえ暗く居た少年ワンタンが蘇った。」
 彼女とはじめてバンビーで遭ったのが何年かは覚えていないが、どうやらタケウチヒロクニの紹介らしい。坊主頭(私の世代は小中高と丸坊主を強制されていた)の中学生がバンビーへ入浸っていると聞かされ、物珍しさに声を掛けたそうである。彼女が神戸大学の学生だったというから、おそらく62年か63年だと思われる。その頃は二階がドラッグの中毒患者の溜まり場で、私は一階の大きなスピーカーの前を定席にしていた。彼女に言わせると、中学生の私は当時からふんぞり返っていて、神戸大学と神戸高校の学生が主宰していた「波」の同人を相手に文学の講釈を垂れていたそうな。同人のうち、五名はいまも鮮明に覚えている。ひとりは自死、ひとりは狂い、その内のひとりと十七歳から二十二歳までの五年半のあいだ同棲することになる。64年から69年のはなしである。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月12日 22:15 | 固定ページリンク




一考 | この途はいつか来たみち

書き込みのあと、メールの受信。私信が一通とインポーターからが四通、必要なのはそこまでで、あとはソネットから一通、ミクシーから一通、ヤフオクから四通、ビッダーズから二通、楽天から一通、そして自動振分けでゴミ箱へ直行する迷惑メールが147通。
昨日、飲みながら管理人が「メールの時代は終わったよ、これからは電話とファクシミリだね」。なんの異存もございません。メールが生き残る道はエロメールだけ。同様に、掲示板が生き残るのはプロパガンダだけかも。
恥さらしは置いておけ、との管理人の意見で残された先日のプロパガンダを私流に書き換えると以下のごとし。

日本政府の動議により、北朝鮮非難の安保理決議1695号が可決されました。これに対し北朝鮮は強く受け入れを拒否しています。国際社会から孤立した北朝鮮に明日はなくなりました。この機に局面の打開を目指して一気に軍事的行動に出て、北朝鮮を植民地化すべきです。南朝鮮にはなにもありませんが、北朝鮮には鉱物資源が豊富にあります。
国民の皆さんは、進んで軍事行動に協力しましょう。特に開戦に備えてスパイ活動やテロ活動を強化しなければなりません。北朝鮮に協力しそうな人物や反政府的な言動をするグループなどが日本の侵略を妨害するかもしれませんので、積極的に情報を政府機関に通報しましょう。

民主主義を信奉し、規制緩和や自由競争を唱えるが、いざとなると組織も個人も頼るのは国。子供のころに頌められて育つと自尊心が強くなり、貶されて育つと駄目人間になるそうな。されば、ひとの生き残る道はファシズムだけなのかも。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月12日 23:22 | 固定ページリンク




薫子 | 「古くて新しい鏡花の世界」

講演会のお知らせです。

金沢の石川近代文学館にて「文豪たちの遺したもの」と題して、収蔵品より詩人、作家直筆の
原稿・書簡・軸・色紙・短冊等を展示する展覧会が催されます。

主な展示作家ー鏡花・秋声・犀星
         夏目漱石・尾崎紅葉・正岡子規・谷崎潤一郎・佐藤春夫・芥川龍之介・
         川端康成・三島由紀夫・井上靖・萩原朔太郎・斎藤茂吉・中野重治等々
   
会期  9月23日(土)より11月12日(日) AM9:30~PM5:00 会期中無休
入館料 一般500円(450円) 中高生200円(100円) ( )内は団体料金20名以上

石川県金沢市広坂2丁目2番5号
 TEL 076-262-5464/FAX 076-261-1609
http://kinbun.com/

関連行事として、10月14日(土)午後3時より文学館の2階講堂にて、
須永朝彦さんが「古くて新しい鏡花の世界」のお題で講演をされます。
 入場無料(ただし館内見学の場合有料)

お近くにお住まいの方、是非お出かけください。



投稿者: 薫子    日時: 2006年09月22日 04:35 | 固定ページリンク




薫子 | 「猫の王国美術館」

展覧会のお知らせです。

直江真砂展 「猫の王国美術館」

1984年に刊行された「猫の王国美術館」(文藝春秋社 絵/直江真砂、文/直江博史)の原画を展示。

2006年10月10日(火)~10月21日(土)
 AM11:00~PM19:00(日曜12:00~18:00)会期中無休

会場 青木画廊 
東京都中央区銀座3-5-16 島田ビル2F・3F
 TEL 03-3535-6858/ FAX 03-3567-3944
http://www2.tky.3web.ne.jp/~aokigaro/

猫好きの方、覗いてみてはいかがでしょうか。



投稿者: 薫子    日時: 2006年09月22日 04:37 | 固定ページリンク




一考 | おでん

 ふたたび北海道のはなし、思い出したのはおでんのネタである。
 1973年の冬、札幌の東急百貨店でタロット展を開催、十日ほどすすきの駅前の東急インでお世話になった。その間、東急百貨店の支店長と東急インの支配人から連夜の接待にあずかった。同ホテルの地下のレストランで馳走になったシャーベット状態の生ハムがとんでもなく旨かったのだが、それは次回に譲るとして、二軒目に連れて行かれた炉端焼屋のおでんについては書いておかなければならない。
 昆布を用いた薄味のだし汁で煮付け、仕上げに生姜入りの味噌ダレをかける。おでんに味噌ダレをかけるのは北海道の他、青森、岩手、静岡の一部、名古屋、福井、京都、香川、愛媛、徳島、九州のごく一部などにみられる。ただし、名古屋は八丁味噌でぐつぐつと煮込むので、おでんならぬ黒でんである。福井が味噌ダレなら富山や石川はと訊かれそうだが、残念なことに同地でおでんを食していない。四国に詳しいのは頻繁に出掛けているからである。

 札幌での具材は蕗、蕨、筍(ネマガリダケ)、昆布巻き、ワカメ、馬鈴薯、焼き豆腐、大根、玉子、菎蒻、てんぷら(薩摩揚げのことで、関西弁に准ずる)の他、ご当地ものにつぶ貝、帆立貝、ホッケのつみれ、鱈の白子などがある。
 つぶ貝は北海道から台湾にまで分布するが、死肉を貪り食ういささか出自のよろしくない巻き貝である。太平洋岸ではツブ、日本海側ではバイと呼ばれるが、北海道ではゴマとの通り名を持つ。地方による個体変異が著しく、道産のそれは巨大ですらある。
 オホーツク産のつぶは刺身が一般的だが、函館の屋台のつぶ焼きや室蘭の地球岬の売店で喰わせるつぶおでんは夙に知られる。地球岬のそれは味噌の煮込みで、いわゆる田楽ではない。大阪でよくみられる牡蠣の土手焼きをご想像いただきたい。函館のそれは神戸の夜店で売っている大貝のつぼ焼きと風情が似ている。函館では生姜を添えた甘辛い汁をつけて食べるが、おでんに辛子ではなく生姜を添えるのは北海道から山形や福島まで北日本では広く行き渡っている。もっとも、つぼ焼きはおでんの領域には入らないが。
 話序でに、大貝のつぼ焼きについて一言。オオガイとの名称は神戸市内でのみ通用する。明石ではホンジョガイ、淡路ではオクガイ、知多半島では大アサリという体幅十センチを超えるウチムラサキ貝のことである。苦みがあって刺身には不向きだが、濃厚なダシが出る。細かく切って栄螺の貝殻へ塩で調味したダシと共に入れ、金網で焼いて頂戴する。あしらいは晒し葱より三つ葉が似合う。白老産のものは苦みが少なく、湯引きでならなんとか食することができる。有名な厚岸産大アサリは内房の三番瀬の大アサリ同様、体幅六センチほどのアサリ属の貝でウチムラサキとは異なる。ツブ、バイ、ゴマ、大アサリなどは俗称なので混同しやすい、現物で識別するしかないのである。
 ウチムラサキは帆立と共にラッコの好物だが、面談に応じた道東のラッコはナイトウェアに極上の昆布を用いるとか、ラグジュアリーな鼬であった。

 道南と青森では小粒のつぶを殻ごと串に刺しておでんにするところもある。ウチムラサキほどではないが、殻つきだとシジミやアサリに勝るとも劣らぬいいダシが出る。腸(わた)がもたらす潮、海風、海藻の香りと僅かな苦み、加えるに昆布の甘味が溶けあった風味は筆舌に尽くしがたい。ダシと言えば、北海道、関西、中国、四国、九州、沖縄は一部を除いて昆布ダシが伝播している。これには北前船が大きく影響している。前述の「てんぷら」もそうなのだが、上方と北海道には共通する文言ならびに調法が多い。
 鱈の白子と書いたが、夏から秋なら鮭の白子もおでんネタに使われる。北海道では鱈の白子をタチもしくはタツ、秋田ではダダミとも呼ぶ。積丹ではその白子を原材料に用いた蒲鉾が作られているが、おでんネタとしてすこぶる美味である。小樽で烏賊の白子を馳走になったが、地方によっては、鮟鱇、鯛、河豚の白子も活躍していそうである。おでんの白子づくしなど、ぜひ味わってみたいものである。
 おでんは第九十八条を削除した憲法のようなもので、根っからだらしがない食い物である。しまりや節度のないもの、腑甲斐ないものは私の好物である。おでんほど野放図な料理が他にあろうか。出汁の取り方から入れる具材まで各人各様であって、これがおでんと言うような定式はどこにもない。言い換えれば、我流にこそおでんの醍醐味がある。それを逆に言えば、我流でなければおでんではないということになる。コンビニで売られている似而非おでんをおでんと呼ぶのが躊躇われる理由である。醍醐味の頭に「そ」を付ければコンビニおでんの概略がお分かりいただけようか。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月22日 06:03 | 固定ページリンク




椿紅子 | 聖母月に引用の聖歌

先日のパーティでご教示頂いた、カトリック聖歌351番第1節は以下のとおり。「五月のきさきを あめつち歌う/ひと年めぐりて 百合咲く季節/マリア祝しませ 祝せられませ」(聖歌集改訂委員会編,1966年1月5日初版発行)http://www.minc.ne.jp/~hosanna/menu5.htmではメロディも聴けます。 1966年に歌詞が平易な口語に変更された後でも「祝しませ 祝せられませ」のリフレインは残ったとのこと。旧バージョンの歌詞は今後調査を要します。



投稿者: 椿紅子    日時: 2006年09月26日 21:27 | 固定ページリンク




一考 | 美しい日本

 足穂の「西山金蔵寺」のヴァリアントについて昔に書いたが、同じタイトルの「西岩倉金蔵寺」が金光さんから届けられた。今回のユリイカ足穂特集の編集真っ直中であり、掲載誌は「美しい日本」だった。この「美しい」という形容詞が遣うに難儀で、毎回困惑させられている。万葉集や枕草子に表れるごとく、いつくしみ、いたわり、かわいらしさの意で用いられるに逆らう気は生じないのだが、「美しい友情」や「心の美しい人」のような抽象的な意味合いを附されるとむっと顔にならざるをえない。
 なぜ不承知なのかと言えば、抽象的な意味内容があまりに突飛で、皆目咀嚼できないからである。内容、本質、概念、どう言っても構わないが、そのようなシロモノを美しいと形容して済むのであれば、文学は不要である。
 表現と換喩は同義であって、その伎倆には上手下手がある。また比喩法や修辞法の骨格をなす想像力にも強弱はある。そして強弱を巧拙に置き換えても厄介は生じない。ただ、巧拙と美醜とは置換不能であって、別種の領域に属する概念だと思う。
 編集を稼業にしていると、しばしば悪しき文章と出遇う。この場合の「悪しき」とは読み手を拒否する文章を指す。なにを書こうとしているのか、なにを伝えようとしているのかが理解できない、要は文意を汲まれないミミズの足跡のような文章である。そして、巧拙で取上げられるのはここまでであって、ここから先へはなしを拡げる必要はない。言葉という流動的な生きものを対象の考察は、思うに任せず、意に満たず、愚痴のみ零すことにしかならない。結果、相手方の不満や苦情を募らせることになる。歴史、伝統、美などという面倒は学者に委せるにしかず、と心している。

 先日、友人から「あなたも美しいとの言葉を遣っている」との指摘を受けた。おそらく、「水浅葱の夢」の巻頭に置いた「今日顧みて、鏡花の本は美しい」を指してのことだと思う。確かに「美しい」から文章を書きはじめたのだが、どのように美しいかとのお喋りに恰度十枚の原稿用紙を費やした。ただし、美しいとはなにかについては一切触れていない。
 「今日顧みて、鏡花の本は美しい」が末尾に置かれたのであれば論外であって、想像力の枯渇を通り越して迂闊ですらある。しかし、私は「美しい」を枕詞として用いたのであって、結句として用いたのではない。遣うに際して試みたささやかな修辞法と受け取っていただきたい。それとこれは大事なことなのだが、「鏡花の本」が美しいと書いたのであって、鏡花の心根が美しいとはどこにも書いていない。鏡花の特集号でありながら、小説を描くための背景としての鏡花の詩精神には目もくれていない。文章は小説家と挿絵画家のコラボレーションに終始する。
 鏡花にとって国家や官憲はバイキンと同じくらい人心を恐怖せしむるものであった。されば「国家官憲黴菌論」でも書けばよいものの、そのような考えを抱くことすらが、鏡花にとっては憚られた。
 個別文化の一部分を構成しながら、相対的な独自性を持つサブカルチャーを鏡花ほど認めなかった作家も珍しい。ゲイでありながらフリークスを斎み毛嫌いする三島由紀夫にも似て、鏡花のマイノリティに対する扱いは非論理的であり前時代的ですらある。当然、その根本には彼一流の美学が横たわっている。
 ところで、美はそのままで全体である、まるごと、あるがままのものに解析は意味をなさない。言い換えれば、論理演算を苦もなくくぐりぬける能力を美は持ち合わせている。と言うよりは、その能力こそが美の天資なのである。従って、美の守護神にとって、非論理的であり前時代的であるのは的を射たことなのである。
 個人は全体を構成する部分である、そこまでなら異議はない。しかしながら、個人の一切の活動は全体(この場合は美)の成長、発展(助長、深化でも同じ)のために行われなければならない、とするならばかなり危険な思想に近づいてくる。さらに、美に対する懐疑が喪われ、美が讃美の対象と化したとき、それを全体主義という。
 もちろん、作家がひとの内面にかかわる道徳、思想、宗教、自然観、価値観などに博くかかわり、逡巡しようがしまいが大した問題ではないと言えなくもない。なぜなら、内面それ自体のベクトル(方向性と強弱)が個々人によって異なるからである。その伝でいけば、描かれた物語を愉しめばよいと言うことに尽きるのかもしれない。もっとも、私にそのまねはできないが。
 「水浅葱の夢」に戻るが、文中「清方は女性像を描くための背景としての自然には目もくれない。女性そのものを周囲の自然と照応し合う自然の一部として捉えるのである」と著したが、あれが唯一の肉声であって、他に中身のある発言はなにもない。書きにくい、あるいは書きたくないといった事柄をいかにして手前に引きつけて贅言を弄するか……そこまで分かりやすく説明する必要はあるまい。「美しい」との空疎にして陳腐な言い回しを字義通り証明するために、桂月流擬古文体を意識してあの文章は拵えられたのである。
 虚無主義を描くに辻潤調の文章は書かれない。私は自らの作法に則るしか手立てを持たない。文章の上手下手など知ったことではない。さりながら、「善意と冗談ばっかりだよ。タチは悪いけど」との本意は遂げたと思っている。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月26日 22:18 | 固定ページリンク




一考 | 白い色鉛筆の王国

 父のせいで、幾人(いくたり)かの政治家と言われる稼業のひとと親しくしている。かつては数十人いたのだが、最近では数人になってしまった。減った理由は私と付き合っても票には結びつかないからである。
 先頃、懇意にしている詩人から、先生、先生と煽てられながら、握手ぜめにあっている時の政治家は性的興奮の真っ直中にある、と聞かされた。同じはなしは政治家からも何度となく聞かされている。ただ、有能な詩人だけに、醒めた学者には理解できない種類の勃起であって……と細やかなはなしに相槌を打つうちに抱腹絶倒に巻き込まれてしまった。
 民意がつねに漠然としたものであり,主として為政者の側の用語として用いられるものであろうとも、その民意による支えがなければ稼業としての政治は成り立たない。人気が如実に跳ね返るという点において政治家と芸能人はよく似た商売なのである。本意は媚を売り、迎合するところにあるのであって、政治家と芸能人はオピニオンリーダーにはなられない。そこが学者先生と異なるところである。
 いかに右傾化ぶってみても、それ自体が民意の反映に過ぎない。かてて加えて政治家本人には矛盾意識がないのであるから、毒にも薬にもならない自己中心的思考の持ち主としか言いようがないのである。
 アイデンティティという言葉で包括される帰属や境界を教えるのは、子供がはじめて体験する社会、すなわち学校と親なのであって、そこには国家も民族も宗教も政治も本来介在しない。そしてその帰属と境界が差別や排除の根本を形成して行く。言い換えれば、親と学校こそが諸悪の根源なのであって、その責任をおりおりの政治や政治家に帰趨させようとするのは了簡違いである。A級戦犯に責任をおっ被せて知らぬ顔の半兵衛を決め込むのとよく似ている。
 多民族が共存しようとすれば、単一のアイデンティティではなく、重層的なアイデンティティが必要になる。その重層的なアイデンティティの意識と、それをめぐる葛藤を考察するのが文学だと私は心得ている。多民族を個々人に置き換えようと消息は同じである。
 個が個であるためには他の個を認めなければならない。その共存に到る途は平坦ではない。どのようにして帰属意識を捨て去るか、どうすれば個がカテゴリー化から抜け出すことができるのか、課題は目白押しである。

 先だっての足穂のパーティで、一言二言しかはなさなかったイタガキノブオさんから小包が送られてきた。なかにはそれこそ小さな詩画集「白い色鉛筆の王国」が入っていた。シュオブのファンだと聞かされたのだが、シュオブやプチ・ロマン派の作家のほんとうの面白さは「重層的なアイデンティティの意識と、それをめぐる葛藤」にある。趣味性をごっそり洗い流した形でのプチ・ロマン派の紹介が望ましいと思っていたのだが、それと呼応しあうような作品である。歌志内で生まれ、いまは東小岩に住むというイタガキさんに感謝すると共に、一冊は土屋和之さんのために取り置くことにした。

「白い色鉛筆の王国」イタガキノブオ
1994年4月4日発行 沖積舎 定価2000円



投稿者: 一考    日時: 2006年09月28日 22:48 | 固定ページリンク




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