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一考 | バンビーについて-2

 去年の五月にながらみ書房から「ジャワ・ジャカルタ百首」を出版なさった神戸の南輝子さんが来店してくださった。その南さんが雑誌のコピーを持ってきた。題して「神戸バンビ狂い」、もちろん彼女が著したエッセイである。文中、中島らも、鈴木創士、タケウチヒロクニ、ロクサン、ワンタンが登場する。ロクサンは山本六三、ワンタンは私である。私が一考を名宣るようになったのは二十歳ぐらいからで、それまではワンタンと呼ばれていた。
 「私がジャズ喫茶バンビに溺れていたのは60年代バンビ全盛の、ジャズが世界中でもっとも輝いていた時代で、らもや創士はそれ以降の学園紛争で騒然としていたころからだから、もはや色褪せた、ジャズ喫茶ともいえないバンビでしかなかったのに、それでも彼らは狂ってしまった」
 彼女が見た創士に興味があって、それを書きたいのだが、宇野邦一さんから聞くところによると創士と私は喧嘩をしたらしい、心当たりはなくもないが、私は喧嘩をしたとは思っていない。後にわだかまりを残すのが嫌なので私は意思表示はする。と書いてもひとにはなんのことやら理解しようがない。
 「創士が……後に生田耕作といろいろあったのはワンタンと同じだ。生田耕作は頑固一徹だったのである」と書かれている。創士と生田耕作とのあいだに何があったのか知らないし、知りたくもない。ただ、喧嘩のあと、創士から電話があって、これからは仲良くしようと言われた、その発言に不名誉な欺瞞を感じたのである。私と生田との喧嘩は私と生田との問題であって、創士とは関係がない。同様に創士と生田との喧嘩は創士と生田との問題であって、私とは関係がない。「敵の敵は味方」というような鄙劣きわまりないものの考え方に私は忿怒を禁じ得ないと言ったまでで、怒りの対象は「ものの考え方」であって、創士ではない。
 ひとは歳と共にものの考え方は変化していく。怒りをひとに向けるのが逡巡われる理由のひとつである。ただし、年長者はその限りではない。文中「頑固一徹」とあるが、頑固は避ければ済むことで、対応は易しい。あの年長者は「鄙劣きわまりないものの考え方」を「文学」だと嘯くような燕石である。箸にも棒にもかからない御仁と別れて間がない創士がまだその影響化にあったとするなら、同情の対象たりえたのかもしれない。そこは私の反省すべき箇所なのであろう。
 最近の鈴木創士はいい為事をしている、紹介の機会はいくらでもある。はなしをワンタンに戻す。
 「ワンタンといえば、神戸の書肆南柯(税金対策で、当時は南柯書局と書肆南柯を遣分けていた)を廃業し東京へ移る直前、私の詩画集『美しき豊潤』を手がけてもらった。永田耕衣にほれこみ、耕衣を全国区へ押し上げた誇り高き彼は、私家版は絶対出さぬといいながらも出版してくれたのはバンビの縁である。打合わせの時、出来上ったばかりの三橋敏夫句集特装本を、恋人を愛でるように撫ぜさすりながら『押し当つる枕の中も銀河かな。ええなあ、ええなあ』と恍惚としていた。装幀家林哲夫によれば東京で酒場の亭主をやっているという。詩人の季村敏夫……の同人誌『たまや』第3号のワンタンすなわち渡辺一考による追悼種村季弘論『詐欺師昇天』を読み、バンビの隅で鬱勃たる情念をかかえ暗く居た少年ワンタンが蘇った。」
 彼女とはじめてバンビーで遭ったのが何年かは覚えていないが、どうやらタケウチヒロクニの紹介らしい。坊主頭(私の世代は小中高と丸坊主を強制されていた)の中学生がバンビーへ入浸っていると聞かされ、物珍しさに声を掛けたそうである。彼女が神戸大学の学生だったというから、おそらく62年か63年だと思われる。その頃は二階がドラッグの中毒患者の溜まり場で、私は一階の大きなスピーカーの前を定席にしていた。彼女に言わせると、中学生の私は当時からふんぞり返っていて、神戸大学と神戸高校の学生が主宰していた「波」の同人を相手に文学の講釈を垂れていたそうな。同人のうち、五名はいまも鮮明に覚えている。ひとりは自死、ひとりは狂い、その内のひとりと十七歳から二十二歳までの五年半のあいだ同棲することになる。64年から69年のはなしである。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月12日 22:15 | 固定ページリンク





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