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一考 | 渦状銀河

 土屋さんの文言中「誰でもあり、誰でもないもの」は意識される側の領域規定である。「揺るぎない自分というものなど信じない」は領域規定からくる論理的結果である。「そうした精神の動きこそ『文学』なのではないか」は演繹的推理であろうか。いずれにせよ、彼から大きな刺戟を与えられた。以下は意識の中核とも言うべき自我についての与太話である。
 意識は流動的で片時も静止しない。言い換えれば、意識は移出と移入が間断なく繰り返される、従って意識する側とされる側との分布域は変化しつづける。あまりの目まぐるしさに信頼性はほとんどない。と言うよりは、意識する側とされる側とのあいだに境界線は見当たらない、と言ったほうが無難である。内燃機関における吸気弁と排気弁のような役割を担う器官を意識は持たない。役割を分担する能力が欠落しているということは、その分、多義的かつ主観的なものとならざるを得ない。主観的であればこそ、経験や行動が過不足なく意識されているとは限らない。
 当掲示板で、意識にかんする遣り取りが何度かなされたが、「意識しているから世界は存在しているのであって、意識がなくなれば世界は消滅する」「なんだかんだと言ってはみても、それを意識しているあなたがいるじゃない」というような内容で、私はなにひとつ承伏できないでいる。「あなたがいるじゃない」のあとに続く文言が「あなたがいるように私もいる。それを分かってよ」ならまだ可愛げがあるのだが、文脈はおよそ異なる。概して、意識を強調するひとは自己中心性の強いひとである。そういうひととの恋愛や友情は心すべきである。よほどの見返りが期待できないかぎり避けるのが無難である。
 まず、意識するしないと「智慧」とはなんのかかわりもない。さらに、「意識する」との行為が即そのまま主体の延いては存在の証明になるとも思われない。自意識の反語はおそらく無意識である、その無意識がいいこととは思わないが、例え無意識であろうとも存在は存在であって、無意識を理由に存在が揺らぐことはない。私に言わせれば、かつての遣り取りは下世話のはなしに過ぎない。
 下世話と称した理由は、意識するしない、もしくは意識する側される側といった二項対立式発想ではどこへも出口が通じないからである。個人によって体験され、気づかれていることを意識というが、この「気づかれていること」には著しく個人差がある。個人差があれば、当然そこには改善の余地がある。改善と書いたが、それが改悪であっても一向に構わない。要は異なるアプローチがあるということを示唆したいのである。思案に耽るときに二項対立はおよそ非効率である。どうどう巡りを楽しむならなにも言わないが、ひとの生は限られている。有効性を持たない試みなどくそったれである。
 それよりなにより、「意識する・しない」を能動的なサ変動詞と思い込むところに誤謬があるように思う。私にとって「意識する」のは受動的なはたらきであって、それ自体はなんらの結句ももたらさない。なにかを生じせしめるのは意識と共に機能する解析能力の方である。体験され、あるいは気づかれていることを読み解き、抽象化して、はじめて意識したと言えるのではないだろうか。繰り返すが、意識する自分を意識してもなにもはじまらない、意識されているところのものを推量し、いかに追体験するかに大事がある。
 「意識されているところのものを推量し」と書いた。押し測らねばならないほど、意識の対象は多義にわたる。認識には感覚・知覚・直観・思考などの様式があるが、それらを総動員したところで、意識されるものと意識されないものとの狭間を填めるのはかなわない。両者の境界を無視はできないが、識閾を僅かずつでも移動させることは可能である。非回帰移動になるところに一抹の不安はあるが、意識のはたらきを高めるのに有効な手立てではないだろうか。意識する自分を反芻し、思いを巡らすのは悪いことではない。しかし、意識それ自体の領域を拡げることに心胆を摧くのも一興である。
 識閾の移動と、移動に伴って意識の側を渦状銀河の微分回転するディスクのように改竄させられないだろうか、人工的な眩暈を作り出すために。最近はそのような由なきことばかり考えている。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月10日 00:31 | 固定ページリンク





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