ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





« 前の記事「美しい日本」 | | 次の記事「御礼」 »

一考 | 白い色鉛筆の王国

 父のせいで、幾人(いくたり)かの政治家と言われる稼業のひとと親しくしている。かつては数十人いたのだが、最近では数人になってしまった。減った理由は私と付き合っても票には結びつかないからである。
 先頃、懇意にしている詩人から、先生、先生と煽てられながら、握手ぜめにあっている時の政治家は性的興奮の真っ直中にある、と聞かされた。同じはなしは政治家からも何度となく聞かされている。ただ、有能な詩人だけに、醒めた学者には理解できない種類の勃起であって……と細やかなはなしに相槌を打つうちに抱腹絶倒に巻き込まれてしまった。
 民意がつねに漠然としたものであり,主として為政者の側の用語として用いられるものであろうとも、その民意による支えがなければ稼業としての政治は成り立たない。人気が如実に跳ね返るという点において政治家と芸能人はよく似た商売なのである。本意は媚を売り、迎合するところにあるのであって、政治家と芸能人はオピニオンリーダーにはなられない。そこが学者先生と異なるところである。
 いかに右傾化ぶってみても、それ自体が民意の反映に過ぎない。かてて加えて政治家本人には矛盾意識がないのであるから、毒にも薬にもならない自己中心的思考の持ち主としか言いようがないのである。
 アイデンティティという言葉で包括される帰属や境界を教えるのは、子供がはじめて体験する社会、すなわち学校と親なのであって、そこには国家も民族も宗教も政治も本来介在しない。そしてその帰属と境界が差別や排除の根本を形成して行く。言い換えれば、親と学校こそが諸悪の根源なのであって、その責任をおりおりの政治や政治家に帰趨させようとするのは了簡違いである。A級戦犯に責任をおっ被せて知らぬ顔の半兵衛を決め込むのとよく似ている。
 多民族が共存しようとすれば、単一のアイデンティティではなく、重層的なアイデンティティが必要になる。その重層的なアイデンティティの意識と、それをめぐる葛藤を考察するのが文学だと私は心得ている。多民族を個々人に置き換えようと消息は同じである。
 個が個であるためには他の個を認めなければならない。その共存に到る途は平坦ではない。どのようにして帰属意識を捨て去るか、どうすれば個がカテゴリー化から抜け出すことができるのか、課題は目白押しである。

 先だっての足穂のパーティで、一言二言しかはなさなかったイタガキノブオさんから小包が送られてきた。なかにはそれこそ小さな詩画集「白い色鉛筆の王国」が入っていた。シュオブのファンだと聞かされたのだが、シュオブやプチ・ロマン派の作家のほんとうの面白さは「重層的なアイデンティティの意識と、それをめぐる葛藤」にある。趣味性をごっそり洗い流した形でのプチ・ロマン派の紹介が望ましいと思っていたのだが、それと呼応しあうような作品である。歌志内で生まれ、いまは東小岩に住むというイタガキさんに感謝すると共に、一冊は土屋和之さんのために取り置くことにした。

「白い色鉛筆の王国」イタガキノブオ
1994年4月4日発行 沖積舎 定価2000円



投稿者: 一考    日時: 2006年09月28日 22:48 | 固定ページリンク





« 前の記事「美しい日本」 | | 次の記事「御礼」 »

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る