ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





« 前の記事「爺」 | | 次の記事「北朝鮮による侵略に備えましょう。」 »

一考 | 塵芥賞授賞式

 プヒプヒさんとりきさんのご参加を得て、第一回塵芥賞の授賞式を拙宅で催した。平井功の編集にご協力くださった六名と管理人二名、それと私たちの十名である。「ラム」の肩ロース・ステーキを主とする焼き肉パーティで、約二名の食らひ抜け、おっと失言、大食らいの方がいらしたが、なんとか量は足りたらしく安堵している。みなさん、ありがとうございました。
 平井功にとどまらず、稲垣足穂におけるプヒプヒさんの活躍には目を見張るものがある。先日、足穂の年譜に「卓識精到」との文言を用いたが、あれはプヒプヒさんの為事に対するオマージュであった。よき友を得たと感謝している。
 席上述べたことだが、実は彼との接点を得るに私はいささか時を要した。難渋の内容を述べれば、デジタル回路の一言につきる。彼の思考がデジタルだと言っているのではない、彼の会話法がデジタル方式なのである。書物のはなしをするに、趣味、趣向、嗜好の類いが前面に躍り出てくる。念のために申し添えるが、彼は決して好悪にとどまらない。好悪の基いとなる近接、熟知、類似、相補などという概念(意味内容)をどんどん掘り下げて行くのである。一方、私は分析は苦手で、零でもなく一でもない割り切れないもの、未分化なものへの思いが強い。対象たる書物から逸脱して行く著者の影や分身のようなものに気もそぞろなのである。
 私がデジタル的物言いにこだわるのは、ひろくウェブサイトを表現の場とするひとには自己中心的なひとが多いからである。その自己中心性に対して私の防禦本能が働いたとでも言っておこうか。齢を重ねると悲しいことに、そうした拒否反応ばかりが強くなって行く。だからこそ、彼が平井功訳詩集を造りだしたときは驚いた。彼にとって平井功はまったくの赤の他人である。面識もない第三者のために財を投げ出すのである。ひとを見る目がないと薫子さんから言われ続けてきたが、そのとおりであった。彼はさらに「驕子綺唱」を造ると言う。ことここに到っては何をか言わんやである。かなわないひとには逆らえない、いっそ剃髪して弟子入りしようかと思っている。

 もうひとりの「某」同人の土屋さんから「『某』という雑誌の名前は、誰でもあり、誰でもないもの、揺るぎない自分というものなど信じない、そうした精神の動きこそ『文学』なのではないかという思いで付けました」とのメールを頂戴した。忝い言葉であって、プリントアウトして書斎に掲げておこうと思っている。
 かつて「胡桃の中の世界」について「入れ子のテーマによって惹き起される眩暈(めまい)について執拗に触れている。絶対的な存在、または中心点といったものを否定し、世界はまったく同質にして同価値の諸部分から構成されている。言い換えれば、一切の比較とアイデンティティをほうり出した思索者の姿がここにある」と書いたことがある。
 澁澤氏が好んで用いた入れ子構造であろうが、伸縮自在であろうが、相互嵌入であろうが、何だって構わない。搖れや振れ、迷いや逡巡、低回や彷徊、いっそ揺蕩いが貧乏揺すりであっても構やしない。ただただ、戦ぎ揺らめき続けることが大事と思っている。
 子供にあっては好悪に基づく行動が端的に示されるが、大人になるとそう単純明快には表明されなくなる。と言って、その理由が社会的な規制や利害関係による制約からくるものならば、単なる不幸としか言いようがない。ああでもないこうでもないと考え込むのは単純なことがらを複雑に、明快なことがらを昏迷に、謂わば自らを溟海に追いやることになろうか。しかし、それは自分自身への抗いの結果であって、千編一律な凶事ではない、類推の効かない個としての不幸である。
 塵芥賞は、かかる負を意図して背負ってしまったひとの才気をさまたげ、足を掬うために設けられた。もとより、精神錯乱の発作で母親を刺し殺した姉メアリーのために生涯独身を決意するも、いつも駄洒落を考えるのを楽しみにしていた「ラム」を肴の授賞式である、塵芥賞がなんの役にも立たない賞であることは言うまでもない。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月07日 22:12 | 固定ページリンク





« 前の記事「爺」 | | 次の記事「北朝鮮による侵略に備えましょう。」 »

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る