ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





« 前の記事「聖母月に引用の聖歌」 | | 次の記事「白い色鉛筆の王国」 »

一考 | 美しい日本

 足穂の「西山金蔵寺」のヴァリアントについて昔に書いたが、同じタイトルの「西岩倉金蔵寺」が金光さんから届けられた。今回のユリイカ足穂特集の編集真っ直中であり、掲載誌は「美しい日本」だった。この「美しい」という形容詞が遣うに難儀で、毎回困惑させられている。万葉集や枕草子に表れるごとく、いつくしみ、いたわり、かわいらしさの意で用いられるに逆らう気は生じないのだが、「美しい友情」や「心の美しい人」のような抽象的な意味合いを附されるとむっと顔にならざるをえない。
 なぜ不承知なのかと言えば、抽象的な意味内容があまりに突飛で、皆目咀嚼できないからである。内容、本質、概念、どう言っても構わないが、そのようなシロモノを美しいと形容して済むのであれば、文学は不要である。
 表現と換喩は同義であって、その伎倆には上手下手がある。また比喩法や修辞法の骨格をなす想像力にも強弱はある。そして強弱を巧拙に置き換えても厄介は生じない。ただ、巧拙と美醜とは置換不能であって、別種の領域に属する概念だと思う。
 編集を稼業にしていると、しばしば悪しき文章と出遇う。この場合の「悪しき」とは読み手を拒否する文章を指す。なにを書こうとしているのか、なにを伝えようとしているのかが理解できない、要は文意を汲まれないミミズの足跡のような文章である。そして、巧拙で取上げられるのはここまでであって、ここから先へはなしを拡げる必要はない。言葉という流動的な生きものを対象の考察は、思うに任せず、意に満たず、愚痴のみ零すことにしかならない。結果、相手方の不満や苦情を募らせることになる。歴史、伝統、美などという面倒は学者に委せるにしかず、と心している。

 先日、友人から「あなたも美しいとの言葉を遣っている」との指摘を受けた。おそらく、「水浅葱の夢」の巻頭に置いた「今日顧みて、鏡花の本は美しい」を指してのことだと思う。確かに「美しい」から文章を書きはじめたのだが、どのように美しいかとのお喋りに恰度十枚の原稿用紙を費やした。ただし、美しいとはなにかについては一切触れていない。
 「今日顧みて、鏡花の本は美しい」が末尾に置かれたのであれば論外であって、想像力の枯渇を通り越して迂闊ですらある。しかし、私は「美しい」を枕詞として用いたのであって、結句として用いたのではない。遣うに際して試みたささやかな修辞法と受け取っていただきたい。それとこれは大事なことなのだが、「鏡花の本」が美しいと書いたのであって、鏡花の心根が美しいとはどこにも書いていない。鏡花の特集号でありながら、小説を描くための背景としての鏡花の詩精神には目もくれていない。文章は小説家と挿絵画家のコラボレーションに終始する。
 鏡花にとって国家や官憲はバイキンと同じくらい人心を恐怖せしむるものであった。されば「国家官憲黴菌論」でも書けばよいものの、そのような考えを抱くことすらが、鏡花にとっては憚られた。
 個別文化の一部分を構成しながら、相対的な独自性を持つサブカルチャーを鏡花ほど認めなかった作家も珍しい。ゲイでありながらフリークスを斎み毛嫌いする三島由紀夫にも似て、鏡花のマイノリティに対する扱いは非論理的であり前時代的ですらある。当然、その根本には彼一流の美学が横たわっている。
 ところで、美はそのままで全体である、まるごと、あるがままのものに解析は意味をなさない。言い換えれば、論理演算を苦もなくくぐりぬける能力を美は持ち合わせている。と言うよりは、その能力こそが美の天資なのである。従って、美の守護神にとって、非論理的であり前時代的であるのは的を射たことなのである。
 個人は全体を構成する部分である、そこまでなら異議はない。しかしながら、個人の一切の活動は全体(この場合は美)の成長、発展(助長、深化でも同じ)のために行われなければならない、とするならばかなり危険な思想に近づいてくる。さらに、美に対する懐疑が喪われ、美が讃美の対象と化したとき、それを全体主義という。
 もちろん、作家がひとの内面にかかわる道徳、思想、宗教、自然観、価値観などに博くかかわり、逡巡しようがしまいが大した問題ではないと言えなくもない。なぜなら、内面それ自体のベクトル(方向性と強弱)が個々人によって異なるからである。その伝でいけば、描かれた物語を愉しめばよいと言うことに尽きるのかもしれない。もっとも、私にそのまねはできないが。
 「水浅葱の夢」に戻るが、文中「清方は女性像を描くための背景としての自然には目もくれない。女性そのものを周囲の自然と照応し合う自然の一部として捉えるのである」と著したが、あれが唯一の肉声であって、他に中身のある発言はなにもない。書きにくい、あるいは書きたくないといった事柄をいかにして手前に引きつけて贅言を弄するか……そこまで分かりやすく説明する必要はあるまい。「美しい」との空疎にして陳腐な言い回しを字義通り証明するために、桂月流擬古文体を意識してあの文章は拵えられたのである。
 虚無主義を描くに辻潤調の文章は書かれない。私は自らの作法に則るしか手立てを持たない。文章の上手下手など知ったことではない。さりながら、「善意と冗談ばっかりだよ。タチは悪いけど」との本意は遂げたと思っている。



投稿者: 一考    日時: 2006年09月26日 22:18 | 固定ページリンク





« 前の記事「聖母月に引用の聖歌」 | | 次の記事「白い色鉛筆の王国」 »

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る