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2005年06月 アーカイブ

一考 | 予行演習

 ですぺらの旧営業方針は昨日で終了しました、どうもありがとうございました。りきさんのせいなのでしょうか、この一週間はお好み焼きのオンパレード、最後の三日はオムライス、オムそば、カツサンドがよく出ました。今日からそれらはメニューから消えます。薫子さんは明日は肉じゃがを作ると張り切っております、家庭の味の押し売りに方向転換するようです。
 私は今日から十一時過ぎに店に出ます。来年秋に出店する新宿店の予行演習です。新宿での営業時間はさらにずれ込みますが、赤坂は取敢えず朝の五時まで、どうかよろしくお願いします。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月01日 15:36 | 固定ページリンク




一考 | 恋愛と読書

 「自分探し」とか「アイデンティティ」といった種類の言葉を聞かされるたびに思うのだが、それを発したひとは自分が日本人であることをどう理解しているのだろうか。私はこの日本という「辺地にある粟粒を散らしたように小さな国」に生れ、日本語を解し、日本語でものを考え、宛てがい扶持の生活様式にどっぷり浸っている。
 「この島国の子供騙しの迷信と、底の見え透いた偽善の中に握りつぶされたような長い一生を送るよりは、寧ろ露西亜のような露骨な圧制国に生れて、一思いに警吏に叩き殺される方が増しだ」とアナーキーなことを著したのは啄木だが、北海道ウタリ協会がとりまとめた陳述書の主旨から大きく変節したアイヌ文化法ができて北海道旧土人保護法が廃止されたのは1997年、「日本は単一民族国家」との迷信のただ中にいまなお私たちは生きている。
 そして私の生活の骨格をなす母国の文化が好きかと問われれば、大いなる疑問を抱く、疑問どころか、はっきりいって鼻持ちならないのである。私にとって目の前にごろんと転がるアイデンティティはそこから遁走すべき性質のものなのであって、決して索し求めるものではない。この「アイデンティティ」を「意識」に置き換えても要諦は同じである。

 精神は運動であり、運動はエネルギーである。だからこそ、精神は常に揺れ動いていなければならない。その搖れや振れを求めて、ひとはさまざまな変化や差異に身を委ねる。言い換えれば、自らの連続性、統一性、不変性、独自性に抗して思索の領域に深く沈潜するのである。もっとも、アイデンティティといっても千差万別である。一部の人格障害、意識障害の治療に人格における同一性の再認が有効な時もある。ただし、千差万別とはいっても、一般論を展開する気はさらさらない。第一に私の意見は常にエトセトラ、初手から一般論にはなりえないのである。知識を振りかざせば骨太になり、肉厚も増す。しかし、そのような塩梅になんら興味はない。どちらかといえば、神経症のひと、譫妄のような意識変容のひと、謂わば置換不能ないびつなものこそが私の偏愛の対象になる。なにかを是正しようとか、訂そうとか、癒そうとか、救おうとかいったよこしまな考えを私は持たない。あるがまま、置換不能な個のなかでの振れ、蠢きのようなものにいたく惹かれるのである。
 私は恋愛は妄想のようなものと思っている。従って、妄想ごっこができるひとが恋人なのである。いっそ、妄想が恋人といった方が早いのかもしれないが、やはり妄想の震源地が必要になってくる。現実の性交渉も書きあらわせば抽象性を帯びる。書くことによって性が即物的な性でなくなってしまうのである。自然界では独立した生活を営むが生殖能力をもたない動物、すなわち幼生が成体、あるいは次の段階の幼生へと変化する際に変態がおこる。同様に、SMの世界ではひとが人形に、オブジェに、いとも簡単に変身する。それを「さまざまな変化や差異」といってもよいのだが、要はメタモルフォーシスという自然界の法則を空想の世界で一挙に実現させることにおいて、SMと文学は似た力を持っているといえようか。その力を空想と呼ぼうが妄想と呼ぼうが、それはひとの勝手である。

 日常であれ精神であれ、生活を意識できても、イマジネーションを意識するのは難儀である。なぜなら、イマジネーションの世界では意識されるものと意識されないものとの識閾が意味をなさなくなるからである。例えば一部の文学の世界では意識されるものと意識されないもの、さらには意識するものすらが一種の入れ子構造に陥る。ギヨタやジュネの文学がそうだし、私などは種村季弘さんから言われつづけた「躄になれよ」との言葉を思い出す。この場合の躄は生活への未練を断ち切れとの勧告であって、ものを書くとは躄になることとの注意を喚起させるための愛情の発露であったと解釈している。
 「一種の入れ子構造に陥る」と書いたが、それを個の喪失といえなくもない。意識するもの、意識されるもの、意識されないもの、それらの側面に個がい、またある側面には個がいない。要は実体と思しきものがどこにもないようであり、あるようでない。
 「書物を繙くとは読み解くことである」と先だって書いた。読み解くためには書き手の思索の淵に立ち入らねばならない。立ち入るためには自己解体の止むなきに到る。この解体は読書にあっては必定である、なぜなら、みずからの信念や好悪で判断すれば、それはどこまで掘り下げても誤読にしかならない。書き手と読み手が入れ子構造になることによって、はじめて読書は環を閉じる。この辺りの消息は恋愛と同じである。さらにいえば、入れ子のなかから思いもかけぬ、新しい人格が、意識が派生することもある。この同化と解体の繰り返し、謂わば個の喪失が読書だと私は思っている。それ故、みずからの信念や信条を託すための引用は著者に対する最大の冒涜ではないだろうか。掲示板では書かなかったが、佐々木幹郎さんが「木」の全文を転記してくださったことに私は感謝している。読書とはなにか、文学とはなにか、という大事を幹郎さんはからだで示唆したのである。小説であれ、詩歌であれ、作品を引用するなら著者の許可を得て全文引用すべきであろう。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月02日 03:48 | 固定ページリンク




薫子 | 本日は

 日替わりフードメニューとして、今日は一考風汁だく肉じゃがを予定しております。11時ごろまではひとりで営業ということになりますので、しばらくは不手際などあるやもしれませんが、ご容赦願います。でもうるさいオヤジがいないので、いい雰囲気、かも。いない人の噂話をするのが「ですぺら」の掟? 
 どうぞよろしくお願いします。



投稿者: 薫子    日時: 2005年06月02日 15:22 | 固定ページリンク




薫子 | 試食を

 日曜日の午後、料理上手のM子さんから水餃子とキッシュ・ロレーヌの作り方を教わってきました。粉まみれになりながら、気分は餃子職人。いびつな皮にMちゃんが器用に餡を包んでくれました。店に持っていきますので、勇気ある方に試食をお願いいたします。合格点を頂ければメニューに加えたいと思っております。どうぞよろしく。
 二人で試食したところ、とってもおいしかったです。Mちゃん、どうもありがとう!



投稿者: 薫子    日時: 2005年06月06日 01:04 | 固定ページリンク




一考 | ウミネコ

 知床に限らないが、船から与えるエビセンをねらってカモメやウミネコがあとを追う。カモメは鈍くさいので、海に取りこぼしたエビセンを拾って食べている。一方、ウミネコは指先のエビセンを見事な所作で啄ばんでいく。船客は嬌声をあげて喜び、それを見通して船着き場ではエビセンが大量に売られている。いつに変わらぬ見慣れた風景なのだが問題がある。カモメは雑食性だが、ウミネコは海面の魚等を主食にしているので「炭水化物」を消化できない。捕食しても吐き出すしかなく、食べ過ぎたウミネコは死ぬ。親からもらったヒナは吐き出せないので、大半が死んでしまう。
 繰り返すが、強風のなか、高くつきだされた指の先から餌をかすめとる至上の芸のあとに死が待っている。言い換えれば、得意の絶頂と死が手に手を取ってやってくるのである。他方、ウミネコが死ぬのを承知で餌を与えているとしたら、ひととは見上げた悪意の持ち主である。当然だが、ひとつの国の、ひとつの地域の生態系が狂おうが、種が滅びようが私の知ったことではない。それでなくとも、生あるものはすべて亡びるべしと思っている。

 今日、はやがけにY・Nさんがいらしたと薫子さんから聞く。深沢さんが亡くなられてから、お会いしたいと思っていたのに残念である。掲示板をお読みなので、書いておきたいのだが、久しぶりにゆっくり酒を酌み交わしたいと願っている。紋別、知床、根室、釧路、函館と、たとえどのようなお店であっても、あなたと一緒ならお店中がきらきら輝くのである。エビセンを飽食したウミネコが死ぬのであれば、ひとが悪意を捕食しすぎるとどうなるのか。ひょっとして、輝きのあとに死が約束されているとしたら、そんな恐怖の予感がにんまりと漂うようなY・Nさんではなかったか。このところ世の中への呪詛を肴に酒を飲む機会がめっきり減っってしまった。されば死ぬ前に一度だけ、ホテル地の果てへイバラ蟹の内子の生を食しに行こうと思っている。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月07日 01:34 | 固定ページリンク




薫子 | 今夜は

 M子ちゃんが遊びに来てくれる。でも、今日はW杯予選対北朝鮮戦。ですぺらにとってはマイナス要因。閑古鳥襲来の予感。心優しき紳士のご来店をお待ちします。



投稿者: 薫子    日時: 2005年06月08日 18:20 | 固定ページリンク




一考 | コバルトブルー

 三年ほど前に積丹半島出岬町、島武意の海の色の青さについて当掲示板で書いた。その宝石のような色について深く書かなかったのにはわけがあった。じつはすぐ横の美国港からビヤノ岬を周遊するグラスボートが出てい、私はそれに乗船したのである。
 底の岩が真っ白に続き、海藻は何も無い、点在する黒い点はすべてキタムラサキウニ。石の表面が白くなっているのは無節サンゴモに被われているからであって、要は一面の磯焼け。目の当たりにした積丹の海は死の海だったのである。
 「磯焼け」とは通常は海藻類が生えている岩礁地帯からコンブなど有用海藻はもちろん、ほとんどの海藻類が無くなり、岩礁表面が石灰藻に覆われた状態をいう。当然、コンブを主食とするキタムラサキウニに身は入らず、アワビなどの生産も著しく減少する。北海道では日本海南西部沿岸の後志南部や檜山沿岸に多くみられたが、最近は道北でも見られるようになった。別の折に下北半島の仏ヶ浦の惨状を書きましたが、どうやら磯焼けは確実に北上しているようである。
 「あの時に見た海の色の青さとひそやかな野辺の送り」と著せば恰好はよいのですが、その実体は海の荒廃にあるのです。積丹の海の青さと石垣島の海の青さはよく似ています。珊瑚の白と磯焼けの白とが海を同じようなコバルトブルーに変化させるのです。同じ群青とはいえ、石垣島のそれには興味がなく、私が積丹に惹かれる最大の理由はその海が漂わせる死の匂いにあるのです。
 中標津町の開陽台の売りは「地球がまるいことが実感できる」、標茶町の多和平の売りは「今にも落ちてきそうなほどの星が、満天に広がる」。共にライダーなら必ず訪れるところだが、牧場はゴルフ場同様、保水能力はまったくない。ちょっとした雨でいたるところが川となり、地面をえぐって滝となる。台風が上陸すれば、河川の氾濫、土砂崩れが方々で起こり、道路は流され、水田や畑は泥に埋り、流木が家屋をなぎ倒していく。満天の星空にはなんの罪もないが、牧場はひどく環境を破壊している。反論を喰らうのを承知で言いたいのだが、それら根釧台地から積丹の海に至るまで、自然はひとの悪意を飽食してきたのだと思う。いまにそこら中が悪意だらけになって、死の匂いが充満し、日本全土が崩壊する日がくるのを一日千秋の思いで待っている。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月09日 03:32 | 固定ページリンク




一考 | 恋する悪意

 紋別へはじめて行った日に泊まったのはたしかセントラルホテルだったと思う。宿に設えられた和風レストランでなく、町へ出て飲もうと友に誘われて幸町へ出掛けた。友がどうあっても、紹介したいひとがいる、あなたならきっと気に入ると、たっての願いであった。ちいさな居酒屋だったが、包丁をさばく女将のただならぬ気配に気後れしたのを覚えている。
 シマエビやサンマ、好物のゴマツブの刺し身を食したのだが、そんなことよりも、その女将が私に与えた妙な印象がこころに深く残った。それが気掛かりで、十年後に紋別を再訪した。
 「お久しぶりね」「ご無沙汰」「どう、お元気」と挨拶が続き、懐かしさでおつむが弛緩した私は自らの近況をとくとくと語った。十分もしないうちに、女将が一言「黙って聞いてればなによ、誰があんたのことを訊いているのよ、あなたの連れのことを訊きたいのよ」
 そうか、これだったのか。ちょいとシャイな身のこなし、現場できたえて叩きあげたカンの良さ、客を自分の眼と手を通じてのみ選別するなににも頼らない芯の強さ。十年前に、得体のしれない妙な印象、割り切れないままに、どこかしら気掛かりだった女将の情念のようなものがやっと私にも垣間見えたのである。いまの私であれば「スピノザ的な嘲笑、サディスティックな悪意」とでも表現したであろうが、当時の私はその種の悪意に羨望を抱きこそすれ、自分のものにするだけの度量はまだなかった。
 これほど強靭な悪意を身体に刻み込むのに、どのような経験を積めば、どのような体験を重ねればよいのか、女将の弟子になろうと決めるのに、さして時間は掛からなかった。それからの一箇月、私は四六時中女将と起居を共にした。共に寝、共に起き、仕入れに行き、仕込みを済ませ、二人で暖簾を出し、暖簾を仕舞い、後かたづけをし、残り物で酒を呷り、飲みつぶれてはふたりで抱き合って眠りこけた。
 ひとを理解するに、ひとを愛するに、他に方法があるのなら教えていただきたい。観念的な操作でことにあたっていてはなにを理解したことにも、なにを諒解したことにもならない。自らの面皮の裏を返して生きるようなひとと付き合うには、自身もまた面皮の裏を返さねばならない。しかるべき研究機関の講座には「人生」との課目はない。推論的理性の対局に徘徊があり、徘徊の奥座敷に鎮座するものこそが弁証法的想像力ではないだろうか。
 件の女将はいまも紋別で小料理屋を営んでいる。彼女との出逢いがなければ、私が飲み屋を営むことなどなかった。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月14日 03:55 | 固定ページリンク




比呂 | 久しぶりにフクさんと呑むフクの会オフ


 恐怖の会永久幹事のフクさんが久しぶりに上京されます。幹事でありながら前回puhipuhiさん出版記念オフでぎりぎり参加できなかったフクさんをねぎらう意味もこめて、フクさんの会オフを下記の日程で行いたいと思います。
 
 日時:6月24日(金) 19:00頃から~夜中
 会場:ですぺら
 会費:5000円程度を予定(人数にもよりますが、普通に飲み食いにするかも)

 最近はフクさんとも、なかなかゆっくりと顔を会わせる機会も少ないかと思いますので、よろしくご参加の程お願いいたします。
 予約人数がありますので参加できる方の表明をお待ちしております。参加したいという方は、こちらへのコメントか、メールで私比呂までご連絡ください。
 一応、メールの方はですぺらへの連絡の関係がありますので21日火曜日に締切とさせて頂きます。

 ちょっとバタバタで申し訳ありませんがご都合のつく方、宜しくお願い致します。



投稿者: 比呂    日時: 2005年06月17日 13:45 | 固定ページリンク




薫子 | 懇親会のお知らせ

 須永朝彦さんがカルチャーセンターの聴講生の方々と懇親会を催されます。
どなたさまでもお気軽にご参加下さい。

 日時 7月9日(土) 午後6時~10時半
 会費 3500円



投稿者: 薫子    日時: 2005年06月19日 02:59 | 固定ページリンク




薫子 | 「義経伝説」

 須永朝彦さんの次回のカルチャーセンター講座のテーマは「義経伝説」。
以下、ちらしより抜粋です。

 「義経伝説」 貴種流離譚から存命伝説へ
 源義経のTVドラマが人気を博しているようですが、信頼の置ける一級史料に載る彼の
記事は驚くほど僅少であり、よく知られた逸話の多くは史料的裏付けの無きものの如く
であります。古来、この国には非命非業に終わった者を悼み畏れる優しき習俗があり、
御霊(ごりょう)信仰などにその一端が看て取れます。殊に若者の場合には悲劇の伝説化
が顕著であり、「判官贔屓」(ほうがんびいき)の語源と成った義経は代表的存在と申せ
ましょう。一部のファンの間では「蝦夷や大陸に渡って生き延びた」と信じられるに至り、
果ては「ジンギスカンとなった」という説まで唱えられております。『義経記』(ぎけいき)に始まり、能・幸若舞・浄瑠璃・歌舞伎などの芸能、また近世の小説・随筆に描かれた
義経像について些かを申し上げたいと存じます。(講師・記)

 7月21日 同時代の証言--「玉葉」「吾妻鏡」「平家物語」など
 8月18日 さかのぼる伝説化--牛若・遮那王・東下り
 9月1日  芸能の義経像--能・幸若舞・浄瑠璃・歌舞伎
 9月15日 渡海伝説--蝦夷・清朝の祖・ジンギスカン同一説

 日時 木曜日 19:00~20:30
 受講料(税込み) 会員 10920円 一般 13020円(入会金不要)
 場所 新宿住友ビル 48階 朝日カルチャーセンター
    郵便番号163-0204 新宿住友ビル内 私書箱22号
    東京都新宿区西新宿2-6-1 電話 03-3344-1945
    URL: http://www.acc-web.co.jp



投稿者: 薫子    日時: 2005年06月19日 03:25 | 固定ページリンク




りき | 冨ノ澤ファンサイト発見

検索でみつけました。
書誌とかかなりしっかりしてます。

http://747seconds.nobody.jp/index.html

これで作家の大体の全貌がつかめると思います。



投稿者: りき    日時: 2005年06月19日 21:42 | 固定ページリンク




薫子 | フード新顔

 点心風フード、加えてみました。
 箱入りおこわ(海鮮)500円、スープ餃子(海老)500円。
またキッシュ作りました。500円。お試しあれ。



投稿者: 薫子    日時: 2005年06月20日 19:24 | 固定ページリンク




如月 | イギリスの人形展

四谷シモンが参加した『人びとと人形展 Guys n dolls』(イギリス、ブライ
トン・ミュージアム・アンド・ギャラリー)が先日終了しましたが、イギリス
では、『タイムズ』『ガーディアン』などの代表的新聞もこの展覧会を取り上
げ、大好評だったようです。同展覧会の紹介ページを新設いたしましたので↓、
みなさん、ぜひのぞいてみてください♪
http://www.simon-yotsuya.net/exposition/brighton.htm

(この展覧会の名前、もっといい訳ないでしょうかね?アイデアありましたら、
ご提案ください。)



投稿者: 如月    日時: 2005年06月29日 15:18 | 固定ページリンク




一考 | 記憶

 K・Iさんへ
 こちらでご返事させていただきます。
 72年の人魚館でのタロット展では辛島宜夫さんは占いのデモンストレーションをしていません。ただし、池袋パルコの方は私は知りません。彼は最初は絵描きさんで、その後占い師になり作曲家にもなりました。当時はみなさん喰うためになんでもしていました。
 ところで、辛島さんが1974年9月に「・・・三年前、わたくしがタロット・カードの実占をする機会を得たのは、池袋パルコと荻窪の人魚館画廊で併催された、日本で最初のタロット展の催事中のささやかなデモンストレーションでありました。この企画は、種村季弘氏の監修によって覆刻された薔薇十字のタロット・カード二十二枚(スタジオTUM作製)の発売を記念するためになされた催しでありましたが・・・」と著していらっしゃるのですから、それはそれでよろしいではありませんか。文章通りだとタロット展は71年ということになりそうですが、真実というようなものはどこにもないのです。わずか三年でひとの記憶は狂っていきます。記憶は改竄され、歴史は都合よくもしくは都合悪しく歪められていきます。いわんや、辛島さんは数年前に自死なさいました。辛島さんの仰言るとおりで、岡田さんにも私にもなんの不都合もございません。 過日、掲示板で触れた荻窪の飲み屋の屋号がカタカナの「ジュニア」であり、店主であると同時に深夜叢書社の大家でもあった方の名が林田さんだったと思い出しましたが、そのようなこともどうでもよいのです。ただ当時、瀧口さん、窪田さん、中井さん、種村さん、三枝さんたちと荻窪で飲み歩いた一刻一刻がかけがえのないものであり、きらきら輝く黄金の日々であったという、そのことだけが記憶の片隅に刻まれているのです。
 他にご指摘の項目も同様、眼に見える世界を踏破して眼に見えない世界の住人になってしまったひとびとにとって時系列はどうでもよろしいのであって、貴方がなにをどう書かれたところで眉をひそめるような小心者は私のまわりにはひとりもいないと断言しておきます。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月30日 01:48 | 固定ページリンク




一考 | ちょいとお待ちください

 りきさんへ
 冨ノ澤ファンサイトをご教示いただきありがとうございます。高遠弘美さんのブロブのように一服の清涼剤になるようなサイトは少ないものなのですね。
 このところ、めちゃ多忙でどうにもなりません。「〈死者〉の告発」については時間をください。七月の半ばになれば大丈夫だと思います。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月30日 01:52 | 固定ページリンク




一考 | 新システム

 北端あおいさんへ
 メールはどうせ読まないでしょうから、こちらで書きます。

 「お気に入り」は「システムフォルダ」のなかの「初期設定」のなかの「Explorer」のなかの「Favorites.html」を新しいシステムの同じ箇所に移せば終了。
 アドレスと過去のメールは 「Mac OS 9.1」のなかの「書類」のなかの「Microsoft ユーザー データ」のなかの「ユーザー」とのフォルダを新しいシステムの同じ箇所に移せば終了です。念の為に書き添えますが「ユーザー」フォルダのなかには「ニュースグループ キャッシュ」というファイルと「メイン ユーザー」というフォルダが入っていて、「メイン ユーザー」のなかには8個のファイルが入っています。それらすべてをフォルダごと差し替えるのです。
 OSには貴女の名前以外は入力していません。 「Mac OS 9.1」のなかの「Applications (Mac OS 9)」のなかの「ユーティリティ」のなかの「アシスタント」のなかに「Mac OS 設定アシスタント」というファイルが入っています。それを起動させてOSとインターネット接続の設定をしてください。

 新しいシステムは無事に起動したとひろさんから聞きましたが、上述した過去のメールの移動が済まない内は使えません。そうでないとメールが両方のシステムに分散され、まとめるのに難儀します。外付けのハードディスク20GBに収めたアプリケーションも使えません。なぜなら、古いシステムには機能拡張が入っていないからです。無理に立ち上げればクラッシュします。と言っても分からないでしょうから、とにかく新しいシステムはまだ使ってはいけないと、これだけ覚えておいてください。過去のメールの移動と設定には時間がかかりませんので、櫻井さんに頼んでみてください。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月30日 02:20 | 固定ページリンク




如月 | 『金葉集』についての論考

小論『金葉集成立史小考ーー輔仁親王鎮魂の視角から』を掲載した再興中世前期
勉強会会報『段かづら』第5号が発行されました。
小論が依拠する位相につきましては下記のページに掲載しておりますが、この機
会に小論をお読みいただき、またご批判を頂戴できれば幸いです。
http://www.furugosho.com/information/kinyoshu.htm

なお、メール等でご連絡いただければ『段かづら』をお送りできますが、私の手
元にもまだ小部数しかないため、ご興味のある方、お手数ですが、↑ページから直接事務局にお問い合わせいただければ幸甚です。



投稿者: 如月    日時: 2005年06月30日 11:38 | 固定ページリンク




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