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一考 | 恋愛と読書

 「自分探し」とか「アイデンティティ」といった種類の言葉を聞かされるたびに思うのだが、それを発したひとは自分が日本人であることをどう理解しているのだろうか。私はこの日本という「辺地にある粟粒を散らしたように小さな国」に生れ、日本語を解し、日本語でものを考え、宛てがい扶持の生活様式にどっぷり浸っている。
 「この島国の子供騙しの迷信と、底の見え透いた偽善の中に握りつぶされたような長い一生を送るよりは、寧ろ露西亜のような露骨な圧制国に生れて、一思いに警吏に叩き殺される方が増しだ」とアナーキーなことを著したのは啄木だが、北海道ウタリ協会がとりまとめた陳述書の主旨から大きく変節したアイヌ文化法ができて北海道旧土人保護法が廃止されたのは1997年、「日本は単一民族国家」との迷信のただ中にいまなお私たちは生きている。
 そして私の生活の骨格をなす母国の文化が好きかと問われれば、大いなる疑問を抱く、疑問どころか、はっきりいって鼻持ちならないのである。私にとって目の前にごろんと転がるアイデンティティはそこから遁走すべき性質のものなのであって、決して索し求めるものではない。この「アイデンティティ」を「意識」に置き換えても要諦は同じである。

 精神は運動であり、運動はエネルギーである。だからこそ、精神は常に揺れ動いていなければならない。その搖れや振れを求めて、ひとはさまざまな変化や差異に身を委ねる。言い換えれば、自らの連続性、統一性、不変性、独自性に抗して思索の領域に深く沈潜するのである。もっとも、アイデンティティといっても千差万別である。一部の人格障害、意識障害の治療に人格における同一性の再認が有効な時もある。ただし、千差万別とはいっても、一般論を展開する気はさらさらない。第一に私の意見は常にエトセトラ、初手から一般論にはなりえないのである。知識を振りかざせば骨太になり、肉厚も増す。しかし、そのような塩梅になんら興味はない。どちらかといえば、神経症のひと、譫妄のような意識変容のひと、謂わば置換不能ないびつなものこそが私の偏愛の対象になる。なにかを是正しようとか、訂そうとか、癒そうとか、救おうとかいったよこしまな考えを私は持たない。あるがまま、置換不能な個のなかでの振れ、蠢きのようなものにいたく惹かれるのである。
 私は恋愛は妄想のようなものと思っている。従って、妄想ごっこができるひとが恋人なのである。いっそ、妄想が恋人といった方が早いのかもしれないが、やはり妄想の震源地が必要になってくる。現実の性交渉も書きあらわせば抽象性を帯びる。書くことによって性が即物的な性でなくなってしまうのである。自然界では独立した生活を営むが生殖能力をもたない動物、すなわち幼生が成体、あるいは次の段階の幼生へと変化する際に変態がおこる。同様に、SMの世界ではひとが人形に、オブジェに、いとも簡単に変身する。それを「さまざまな変化や差異」といってもよいのだが、要はメタモルフォーシスという自然界の法則を空想の世界で一挙に実現させることにおいて、SMと文学は似た力を持っているといえようか。その力を空想と呼ぼうが妄想と呼ぼうが、それはひとの勝手である。

 日常であれ精神であれ、生活を意識できても、イマジネーションを意識するのは難儀である。なぜなら、イマジネーションの世界では意識されるものと意識されないものとの識閾が意味をなさなくなるからである。例えば一部の文学の世界では意識されるものと意識されないもの、さらには意識するものすらが一種の入れ子構造に陥る。ギヨタやジュネの文学がそうだし、私などは種村季弘さんから言われつづけた「躄になれよ」との言葉を思い出す。この場合の躄は生活への未練を断ち切れとの勧告であって、ものを書くとは躄になることとの注意を喚起させるための愛情の発露であったと解釈している。
 「一種の入れ子構造に陥る」と書いたが、それを個の喪失といえなくもない。意識するもの、意識されるもの、意識されないもの、それらの側面に個がい、またある側面には個がいない。要は実体と思しきものがどこにもないようであり、あるようでない。
 「書物を繙くとは読み解くことである」と先だって書いた。読み解くためには書き手の思索の淵に立ち入らねばならない。立ち入るためには自己解体の止むなきに到る。この解体は読書にあっては必定である、なぜなら、みずからの信念や好悪で判断すれば、それはどこまで掘り下げても誤読にしかならない。書き手と読み手が入れ子構造になることによって、はじめて読書は環を閉じる。この辺りの消息は恋愛と同じである。さらにいえば、入れ子のなかから思いもかけぬ、新しい人格が、意識が派生することもある。この同化と解体の繰り返し、謂わば個の喪失が読書だと私は思っている。それ故、みずからの信念や信条を託すための引用は著者に対する最大の冒涜ではないだろうか。掲示板では書かなかったが、佐々木幹郎さんが「木」の全文を転記してくださったことに私は感謝している。読書とはなにか、文学とはなにか、という大事を幹郎さんはからだで示唆したのである。小説であれ、詩歌であれ、作品を引用するなら著者の許可を得て全文引用すべきであろう。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月02日 03:48 | 固定ページリンク





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