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一考 | 恋する悪意

 紋別へはじめて行った日に泊まったのはたしかセントラルホテルだったと思う。宿に設えられた和風レストランでなく、町へ出て飲もうと友に誘われて幸町へ出掛けた。友がどうあっても、紹介したいひとがいる、あなたならきっと気に入ると、たっての願いであった。ちいさな居酒屋だったが、包丁をさばく女将のただならぬ気配に気後れしたのを覚えている。
 シマエビやサンマ、好物のゴマツブの刺し身を食したのだが、そんなことよりも、その女将が私に与えた妙な印象がこころに深く残った。それが気掛かりで、十年後に紋別を再訪した。
 「お久しぶりね」「ご無沙汰」「どう、お元気」と挨拶が続き、懐かしさでおつむが弛緩した私は自らの近況をとくとくと語った。十分もしないうちに、女将が一言「黙って聞いてればなによ、誰があんたのことを訊いているのよ、あなたの連れのことを訊きたいのよ」
 そうか、これだったのか。ちょいとシャイな身のこなし、現場できたえて叩きあげたカンの良さ、客を自分の眼と手を通じてのみ選別するなににも頼らない芯の強さ。十年前に、得体のしれない妙な印象、割り切れないままに、どこかしら気掛かりだった女将の情念のようなものがやっと私にも垣間見えたのである。いまの私であれば「スピノザ的な嘲笑、サディスティックな悪意」とでも表現したであろうが、当時の私はその種の悪意に羨望を抱きこそすれ、自分のものにするだけの度量はまだなかった。
 これほど強靭な悪意を身体に刻み込むのに、どのような経験を積めば、どのような体験を重ねればよいのか、女将の弟子になろうと決めるのに、さして時間は掛からなかった。それからの一箇月、私は四六時中女将と起居を共にした。共に寝、共に起き、仕入れに行き、仕込みを済ませ、二人で暖簾を出し、暖簾を仕舞い、後かたづけをし、残り物で酒を呷り、飲みつぶれてはふたりで抱き合って眠りこけた。
 ひとを理解するに、ひとを愛するに、他に方法があるのなら教えていただきたい。観念的な操作でことにあたっていてはなにを理解したことにも、なにを諒解したことにもならない。自らの面皮の裏を返して生きるようなひとと付き合うには、自身もまた面皮の裏を返さねばならない。しかるべき研究機関の講座には「人生」との課目はない。推論的理性の対局に徘徊があり、徘徊の奥座敷に鎮座するものこそが弁証法的想像力ではないだろうか。
 件の女将はいまも紋別で小料理屋を営んでいる。彼女との出逢いがなければ、私が飲み屋を営むことなどなかった。



投稿者: 一考    日時: 2005年06月14日 03:55 | 固定ページリンク





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