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一考 | マゾヒスト

 ご指摘のとおり、「O嬢におけるジルベール・レリーとジャン・ポーランとの鞘当て」と書いたのはそのことです。ジャン・ポーランのサド論にレリーが噛みついたわけですが、それを軽くいなすというか、はぐらかしたのがO嬢に附せられた長い序文です。もっとも、自傷行為をサディズムに見立てるのには跳躍があって、小生はレリーの意見に与することはできないのですが。
 サディズムとマゾヒズムを対立的・図式的に捉える、もしくは弁証法的に統一するのはどちらに転んでも同じことで、レリーのサド論はクラフト=エビングの「性の心理学」を一歩も出ていません。クラフト=エビングはサディズムとマゾヒズムは別個に独立したものでなく、能動と受動との対立によって性衝動がつくりあげられてゆく一つの単位であって、両者は切り離して考えられない、と定義します。レリーのサド論はそのクラフト=エビングやフロイトの定義に則って著されたもので、サディズムとマゾヒズムとの個々の項目の異質性や多義性を視界から簒う結果になっています。
 他方、反転・転位・顛倒・仮装・弁証法的分裂といったソフィスト的技法を駆使したドゥルーズの「マゾッホ紹介」は正確な意味において徹底したレリー批判の書として読むことが可能です。鞭をふるう側もふるわれる側も、共にマゾヒズムの世界の住人でなければ困るのであって、どこまでいこうがサディズムの世界とは無縁とするドゥルーズの考えはそのままO嬢擁護に当てはまります。エロティックな要素をしりぞけてエロティシズムに徹した、すぐれて哲学的な小説O嬢をめぐる鞘当ては、それだけで一本のエッセイを著わせるのではないでしょうか。
 いずれにせよ、ジルベール・レリーのサド論とジャン・ポーランのそれとの乖離と言うよりは、意地の張り合いが面白いのです。さらに加えるにドゥルーズです。「サドにスピノザ思想が、推論的理性があるとするなら、マゾッホにはプラトン主義が、弁証法的想像力がある」とはドゥルーズのよく引用される言葉ですが、そのところを抜きにすればO嬢の面白みは半減します。

 ジルベール・レリーの「わが文明」については当掲示板でなんどか触れたことがあるのですが、二〇〇三年五月以前の書き込みなので検索できません。「ドゥーヴの動と不動」のボンヌフォアの初来日が1968年、その折に大槻鉄男さんの通訳ではなしたのですが、ジルベール・レリーの詩を激賞なさっていました。早速ポヴェールへ問い合わせたところ、二冊の詩集が送られてき、内容と当時まだ在庫があったという点に愕かされました。
 多田智満子さんがボンヌフォアをお好きなのでレリーの詩を紹介したのですが、こんなものはダメと憤慨なさっていました。エロティックなもの万般に拒否反応を示す多田智満子さんなら当然の結果だったのですが、およそ頑固さにおいて多田智満子とレリーは双璧だと思いました。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月23日 00:25 | 固定ページリンク





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