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一考 | O嬢

 O嬢はどこやらでS・Yさんが翻訳したと発言なさっていますが、あれは記憶の改竄ではないかと思うのです。もっとも記憶とか時系列はそういったものなので一向にかまわないのですが。私がご当人から確認した大昔のはなしでは、S・Yさんが手伝ったのはランジェリーの名称のみ。しかも私には適訳とは思われません。もっとも、原文を解さないのでランジェリーの専門用語が遣われているのかどうかすら分かりません。従って、本当はなにも言えません。

 マゾヒズムとサディズムが同一人のなかで共存しないように、マゾヒストとサディストとの出遇いはどうあっても起こりえないものです。鞭をふるわれる側にあっては鞭を携えたひとは快楽を与えてくれるサンタクロースのようなもので、喜びを持って迎えられた瞬間からサディストはサディストとしての存在意義を損ってしまいます。そんなはなしを某マゾヒストに聞かせたところ、「私には関係のないはなしです。だって私は縛られるのが好きなのですもの」
 小説だからいいようなものの、マゾヒストは頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿、鳴く声はぬえといった化け物のような存在ではないでしょうか。ぬえ退治の源三位頼政がステファン卿や司令官と縁戚関係にあったかどうかの記載は平家物語になく、サディストであったかどうかの記述も抜け落ちています。
 余談はさておき、O嬢は恋愛をデューイのいうインストルメンタリズムに則って描いた傑作と解釈しています。O嬢の場合は恋愛や性愛ということになりますが、それら観念は状況を変えるための道具であり、その真偽よりもむしろ有効性(確定的な状況)が問われなければならないとの証明と考えれば、ジルベール・レリイとジャン・ポーランとの鞘当ても納得がいくのです。
 訳者T・Sさんのアンチ・ロマン嫌いはともかく、O嬢を高度に抽象化された小説とするのは理解に苦しむところです。貴兄の体制音調の流麗なる翻訳を心待ちにしています。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月18日 04:01 | 固定ページリンク





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