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一考 | オブセッション3

 会話や共感の共有の好例は中世の一味神水に求められる。行動を同じくするひとたちは、お互いのこころの結びつきを確認し合わなければならない。同じ釜の飯を喰うとか、婚礼の三三九度、または献杯や返杯などの喫飯から掛け声や手締めのようなセレモニーに至るまで、集団としての紐帯を強める儀式の材料には事欠かない。しかし、そこには部外者を「劣った者」と見る差別観や強者の奢りがちらついている。儀式の裏面には常にパターナリズムが巣くっているのである。
 明治憲法下にあって国家のありようを説く国民道徳論が政府の奨励のもとに広い支持を受けた。そして「家族国家」とか「国民は天皇の赤子である」とかいう表現に則って家族主義的国家観が打ち立てられた。その総仕上げが1940年の「部落会町内会等整備要綱」によって結成が義務づけられた隣組であった。情報の伝達、防空防火、資源回収、国民貯蓄、体位向上厚生にとどまらず、食糧その他生活必需品の配給を隣組が担ったとき、パターナリズムを「おためごかし」とか「大きなお世話」として誰ひとり拒否できなくなった。拒否できなくなったと言えば聞こえはいいが、率先して隣組へ常会へと参入し、小旗を打ち振ったのが実態である。自分で決めずに常会に委ねる彼方任せも、パターナリズム容認として俎上にのぼるのは必至である。
 かつての「女大学」の「独身であれば父に従い、結婚すれば夫に従い、夫が亡くなれば息子に従え」から「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」の布達に至るまで、父権的あるいは国権的権威が大手を振って罷り通り、民衆から熱狂的に支持された。日本民族のマゾヒストぶりには救いがたいものを感じる。
 先の項で、「70年間にわたる武断統治」と書いたが、朝鮮の加羅にあった任那日本府の時代からパターナリスティックな関係は続けられていたのである。この上下関係は植民地や委任統治といった政治の表層にとどまらない。日本人のこころに深く穿たれた集団意識それ自体がパターナリズム一色に染め抜かれているのである。

 戦時中に限らない、個人の意志決定を尊重するような世態がわが国に一度でも芽生えたときがあったのだろうか。鎖国時の江戸三百年と富国強兵の百年を合わせた四百年の長きにわたって、民衆はオマカセ主義に慣れ親しんできた。その結果、日本人は考えるのが不得意な国民になってしまった。
 先項の冒頭で「選択が立場の闡明たりうる」と著したが、軍人さんとして韓国へ行くか満州へ行くか南の島嶼へ行くか自由に選択しろと言われても私は困惑する。まるで昆虫の世界でいう寄主選択のようなものなのだが、民衆が思い悩むのはいつの世にあっても宿主の選択に限られている。宿主を峻拒し、寄主を拒むところから自由がはじまるのだが、その自由には出口がない。冥く湿った井戸の底に、妻子と共に投げ棄てられた大杉栄を私たちは知っている。(つづく)



投稿者: 一考    日時: 2006年08月31日 21:09 | 固定ページリンク





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