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一考 | オブセッション2

 食うや食わずの状況を一歩でも抜け出るとひとは慢心する。そこにいささかの閉塞感が香辛料として加味されると、ひとは他愛なくナショナリズムに陥る。ナショナリズムは鼻閉塞、要ははなづまりがもたらす高鼾のようなものだと思っている。傍迷惑だが、本人は意外と気付いていないのである。「親兄弟が闘っているのに勝てと願うのは自然な思いであった」と大佛次郎が発言しているが、かように無批判な情動こそがナショナリズムを生む元肥となる。
 エモーションが元肥なら、集団生活の最小単位である家族が苗床となる。掲示板で常に書き継いできたことだが、わが子に限って、わが親に限って、わが家族に限ってとの一随な意識が、おらが村、おらが地域、おらが民族、おらが国、おらが宗教へと拡大深化して行くのは易い。そして家族愛は視線の移動を著しく難しくする。「視線の移動」を想像力に、気配りに、価値観や歴史観の相互嵌入に置き換えていただきたい。念のために申し添えるが、家族愛をやみくもに否定しているのではない、家族愛を掘り下げてゆくとそこにはとんでもない危険性、すなわち家族主義が横たわっている、それを示唆したいまでである。
 情動を拒み続けた作家に荷風がいる。断腸亭日乗にみられる冷酷なまでの目線は戦争批判にのみ向けられたものではない、家族はおろか愛人や恋愛までを荷風は否定してやまない。戦争批判と民衆批判が取りも直さず、家族主義の否定に一直線に繋がることを荷風は深く諒解していた。言い換えれば、会話、共感の共有、互いの生命の確認等を荷風は「冷笑」したのである。(つづく)



投稿者: 一考    日時: 2006年08月31日 19:20 | 固定ページリンク





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