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一考 | つづき

 「某テレビ局が泉鏡花の番組を拵えていて、それを機会に勝井隆則さんとお会いできるかと楽しみにしていたのだが、諸経費節減を理由に駄目になった」と書き込んで忘れていたら、その某テレビ局のプロデューサーが来店、「一考さんは金沢へ行くつもりだったのですか」と訊ねられてこちらが周章てた。端から行けるとは思っていないし、また行く気もない。勝井さんと会うときは妙な紐はない方がいいに決まっている。「会いたいねえ」との意思表示が主題であって、テレビ局ははなしの主旨から遠く離れる。
 私にとって、ウエッブサイトへの書き込みは基本的に無責任である。適当に書いておればよろしいのであって、あとは野となれ山となれである。とは申せ、ですぺらのお客には新聞社の方が多い。従って、時事問題に現れる数値ならびに全体の流れに関しては極力正確に書くように心掛けている。複数の新聞社の記者が私の文言の裏を取って驚いていたようだが、企業の統合や合併に関しては専門の新聞記者よりも情報が早い時もある。ただし、そういった情報は新聞社の方とは話すが、掲示板では書かないことにした。ひとことにどれだけの資料の分析が罩められているか、などと言い出すと泣き言にしかならないし、挙句に「一考にかかるとはなしが倍増される」ではやってられない。今年の夏の書き込みで話の裏が通じるのは新聞屋さんだけだと身にしみて判った。ひとの死に関しても消息は同じである。横須賀功光さんが亡くなられてから、共同通信の配信が済むまでは一切触れないことにした。

 「能登の消息」で河崎徹さんの文章に触れたのは、かれの文章によって勝井隆則さんをより身近に感じたからである。「シャイ」と「マゾヒズム」との関係が私の舌っ足らずな表現によって、マゾシストになろうが、エクソシストになろうがそんなことはどうでもよい。勝井隆則、気配り、片便宜との弁証を楽しませてくださった河崎さんの人物活写、その実のある筆力に驚かされたのである。時の綺羅になんら興味を抱かれない「融通の利かない人間ぎらいのガンコなおっさん」の仲間に加えてくだされば幸いと思っている。
 河崎さんの文章の末尾を無断で引用したい。「マゾ、サド、暴力性、自虐性、残虐性…を持った人間が、勝手気ままに世界中に向けて言いたい放題を放出するインターネット、それがいいのか悪いのか私にはわからない。ただその事を時間をかけてゆっくりと検証する間もなく次から次と(インターネットに限らず)便利なものが生み出されていくのに、私はどうも付いていけない(人間の体の構造は数世紀前とほとんど変わっていない――私だけではない)。こんな事を言うと、どこからか『だからお前は時代遅れと言われるのだ』という声が聞こえてきそうだ」
 「毎月抄」に「或人、花実の亊を、歌にたて申て侍るにとりて、古の歌は、みな実を存して花を忘れ、近代のうたは、花をのみ心にかけて、実には目もかけぬからと申ためり」とある。意味内容を実にたとえるのに対し、表現技巧を花といっているのだが、論旨は「実を存してこその花」にある。定家の時代からインターネットの時代まで、変わるところが何もないとするならば、これは既に恐怖の対象でしかない。実に目もかけぬ表現技巧がそらごとでなければなんなのか。タルホの手づつの文章に一服の清涼を覚えるのは私ぐらいのものなのか。



投稿者: 一考    日時: 2005年11月29日 21:25 | 固定ページリンク





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