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一考 | 朗読会

 佐々木幹郎さんの詩の私は断片的な読者でしかない。それを今、恥じている。十七日の朗読会はよかった。恥じ入るほどによかったのである。二十歳の頃、種村季弘さんとはじめて出会った時も「水」のはなしに終始した。それは鏡花の文学作品に顕れる「水」だった。
 思潮社の「別冊現代詩手帖第一巻第一号泉鏡花」が刊行されたのは一九七二年一月、編集を手伝ったのはその前年の一年間である。所収の種村さんの鏡花論は水・水・水のオンパレードだった。六九年から七一年にかけて、泉鏡花に託つけて、種村さんから文芸評論のありよう、エッセイの書き方を教わった。役に立たない私なれば、ついぞ身にはつかなかったが、ご教示くださったことを忝なく思っている。
 その「水」や「流れ」のモチーフがそれこそ「流れのまま」に息づいているのが幹郎さんの詩である。引っ掛かっていた疑問、結石のように固まっていた疑問が「水」のひとことで砕かれ流されてゆく。空中をひらひら落ちる木の葉、水中を泳ぐ魚、空を飛ぶ鳥、はたまた帆船に働く風の力、飛行機の翼に働く揚力、暴風によって建物の受ける破壊力、幹郎さんの詩の「野をひらく鍵」は流体にあった、と気付かされたのである。幹郎さんにとって詩は一種の水祝儀、灌頂のようなものであった。朗読によって端緒が開けたと思うのは恥じでもなんでもない。そんなことよりも、幹郎さんの詩をいちから読まねばならない、と脅迫せしめた朗読会に感謝である。



投稿者: 一考    日時: 2005年11月29日 22:33 | 固定ページリンク





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