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一考 | 龜鳴屋に託つけて

 龜注付き「ただ者ではない」を愉しく読ませていただきました。文中、「勝井家兼・龜鳴屋」とあり、藤原兼家ならぬ勝井家兼(イヘカネ)も一興かと思いました。「兼」は「気をかねる」の意で用いられます。「姑の手前を兼ねる」のがわれらプラトン的「ムコ殿」の実相。また、「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」の六を兼ねる、かの庭園を「家」の一部に取り込むところなど、文学を山師の吹くヤマコと心得る我らにふさわしい池泉大回遊式名前かと感服致しました。ヤマメとニジマスの魚卵漬に感謝、河崎徹さんへよしなにお伝えください。

 以下は「ムコ殿」からの連想ゲーム、一代のヤマコ稲垣足穂についての一言です。
 昨日、加藤郁乎、松山俊太郎両先達とタルホ星について歓談致しました。酒を断っての三時間余、土方巽、澁澤龍彦、種村季弘各氏も降臨、「ユリイカ」の郡淳一郎さんのお陰をもって快なる刻が過ごせました。
 女性は時間と共に円熟する、しかし少年の命は夏の一日である。少女と相語ることには生涯的伴侶が内包されているが、少年と語らうのは常に「ここに究まる」境地であり、「今日を限り」のものである。上記は共にタルホの言葉ですが、「美のはかなさ」の身勝手な刹那主義と「白鳩の記」における飛行機は墜落するものとの恣意的なものの考え方とが、既視感とドッキングしたところにタルホ的永遠癖が宇宙的郷愁があったように思うのです。言い換えれば、タルホの母への対峙の仕方、姉への反感、夫人への冷酷さ等々、女性への憎悪がタルホの文学を支えるエネルギーの源ではなかったかと、そう思うのです。
 「およそ世にある情けなさのなかでも夢でものを食べるほどの儚さに匹敵するものはない」こちらもタルホの言葉ですが、ここで触れられている「儚さ」とタルホ文学の主流をなす「不安」を読み解いた高木隆郎氏の文言は鋭い。折目博子さんの「虚空 稲垣足穂」から孫引きする。
 「稲垣足穂氏のロールシャッハ図版にたいする反応によると、その人間像は現実の世界に生活するそれではなくて、演劇的人物、悪魔ないし極度に象徴化された人間等々である。このことは、かれの豊かな創造性、空想力を示すと同時に、人間をリアルな社会的生活体として見ておらず、それから情緒的な距離をへだてていることを意味している。彼の情緒的な共感性は具体的人格に対しては拒否され、自らの創造になるイマジナリイな、抽象的な人間性にむけられ、またそうした独自の空想的世界に遊ぶ人間と自己を同一視する。(中略)要約すると、稲垣足穂は分裂性性格者で、具体的なものを拒否し、現実的情緒的な対人関係をともなう現実社会への適応に欠けるが、独自のはなはだ豊かな空想力によって幻想的世界を創造して、そこに住む人間と情緒的共感性を得ている。その観念活動はパラノイア的傾向をおびることすらある。同性愛的傾向が窺われるが、真性倒錯ではなく、非常化された性器を通じての原始心性への復帰、物神崇拝的願望への強い執着である」
 またコバルトの空に飛行船が浮かんでいるタルホお得意のパステル画について、高木隆郎氏は分析する。
 「画面は分裂病的性格者に特有な幾何学的水平分割であり、飛行船は空間の上下左右とも完全な中央に懸垂し、それに原画では暗いコバルトの空と山脈の色彩--私はこの絵を見せられた瞬間、ほとんどショッキングなほどの不安を感じとってしまった。揚力と重力のぎりぎりの均衡である。これは現実の不安でもなく、夢想された不安でもない。現実と幻想の間に宙吊りにされた不安に他ならない」
 長々と引用したのには理由がある。これだけの材料があれば、五十枚のタルホ論が書ける。私たちの世代のタルホは終わった。オマージュがこれ以上繰り返されてはならない。文学の一翼にオマージュがある。しかし、オマージュのなかには憎悪も儚さも不安もなにもない。文学とは軋轢であり、コンフリクトである。言語体験としての世界体験、離郷体験や流浪がもたらす未決の宙づり状態、あるいは生きかたそれ自体が一種のだまし絵であるかのような演劇性等々のなかにしか文学は存在しない。次の世代がタルホをいかに読み解くのか、それを見届けてから死にたいと切に願っている。



投稿者: 一考    日時: 2005年11月28日 23:28 | 固定ページリンク





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