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一考 | 「PARADO ZERO」

 「sai」と名付けた雑誌が創刊された。黒瀬珂瀾さんや玲はる名さんの作品が掲げられている。ここでは「PARADO ZERO」と題された黒瀬さんの作品について触れたい。引用は巻頭の四首であって、選択したものではない。

 Welcome to JFK と死者の名の大き文字見ゆ機窓より見ゆ
 きりもなく L'etranger なる喜びに満ちて差し出す指紋、面相
 空港は都市の周縁なればまた空港の周縁に移民が
 ニューヨーカーが住む場所ゆゑにニューヨーク 冬晴れに輝ける冬空

 先月の九日に私は「らっきょの皮むき」と題する紹介文を書き込み、文中で種村季弘さんのトートロジーについて述べた。「種村さんに『夢』または『夢記』と題された掌編小説の連作がある。島尾敏雄や井伏鱒二や澁澤龍彦のそれと同じくトートロジックな重語法で小説の原器的形態を表出した作品で、タイトルに相応しく内容的な実体はなにもなく、言葉の現実による記述に終始する。『夢』とあるからには当然で、二元論的緊張が不気味なほど欠如した、謂わばらっきょの皮むきのような作品なのである」
 黒瀬さんの作品を「らっきょの皮むき」に見立てるつもりはさらさらないのだが、彼が用いた重語法には驚かされた。一読、「なるほど、そう来ましたか」が最初の感想であった。卓越した修辞法を身につけたうえでの重語法である。修辞法としてのトートロジーではなく、プラトン的な匂いが紛々と漂っている。このような曲球(くせだま)を素直には受け取られない、その裏を覗き見たくなるのは人情であろう。

 第一歌集での試みは、塚本邦雄、春日井健といった戦後の前衛短歌への憧憬だったのか、訣別だったのかというような形式論ではなにもはじまらない。例えば、同一人がベケットとジュネを翻訳するとして、その訳文が同じであろう筈がない。否、同じであっては困るのである。同様に、ひとを評し論じる折、その対象に即して自らの水準基準を変更させなければならない。鴎外と足穂が、鏡花と久生十蘭が同日に論じられては堪ったものではない。一度書き上げた作品を触らない作家が一方にいれば、終生弄くりつづける作家もいるのである。
 タルホの『ヰタ・マキニカリス』における改作は、構成し直すなどという生易しいものではなかった。鏤刻の名に相応しい、大胆にして繊細な添削が細部にいたるまで施されている。「黄漠奇聞」は84枚が25枚に、「星を売る店」は70余枚が」25枚にいった按配である。「タルホ・コスモロジー」の自註には、「生活記録を出ないもので、文学以前」とか「まだ冗漫なようだ」とか「なお意に満たない」などと書き記されている。同時代の作家の作品を「存在的であっても、存在学的ではない」と看破するタルホならではの、はったりを利かせた為事であった。
 タルホにとって文体が技法の問題ではなく、ヴィジョンの問題であったように、黒瀬珂瀾の短歌に接することは、そのまま彼の思考のプロセスなりリズムなりを擬(なぞら)えることになる。彼はタルホのように旧作の書き換えはしない、しかし、その書き換えが実は書き換えではなく、そのままタルホヴィジョンの再構成作業を追うことであり、タルホの宇宙模型のなかへ潜り込んでゆくことであったように、黒瀬珂瀾はこともなげに精神を改作しつづける。言い換えれば、思考そのものを実に身勝手に脱ぎ捨ててゆくのである。そして、それはそのままカラネスクの再構成作業を追うにとどまらない。黒瀬さんの短歌を読むことは、自分自身のヴィジョンを作り上げる方向へと読者を駆り立てる力そのものに触れることになる。
 10月5日の朝日新聞夕刊に黒瀬さんのインタビュー記事が載っていた。「歌で世界を変えられると信じたい。言葉で世界が開けて、世界の見え方が変わるような歌。内容より、言葉を信じたい」また「意味にとらわれて地に足が着いたような歌より、もっと高く意識を飛ばす歌を」と文中で黒瀬さんの言葉が紹介されている。「意味」と「意識」との関係が月並な二項対立ではなく、弁証法でもなく、より透明感を有した新たな領域へ曳きずりだされているのが諒解できる。
 かつて相澤啓三さんの詩について、「詩歌を繙き、そこに認め綴られたことばの意味を訊ね、内容を追ったところで作品のひとつの側面をなぞることにしかならない。要するに、選択された文言やその作家の語彙を気にしていては詩は読まれないのである。意味内容や表象を読み解くのと同時に、そこから遠く逸脱してゆく書き手の影や分身、いわば著者の搏動のようなものを諒解しなければ、書物を繙いたことにはならない」と私は著した。黒瀬さんの場合、この意味内容のひとつに短歌の形式や約束事が含まれるのは言うまでもない。
 黒瀬さんの作品を読んでもうひとつ感じたことがある。短歌や俳句を自分の好みにあわせて撰び、組み直すといった美意識は黒瀬さんの作品にはもはや通用しない。通用しないと言うよりも、通用させてはならないということである。そもそも「美意識」の屋台骨は私たちが個々に持つ好き嫌いである。さらに、その好き嫌いを自由意志といってもなんら不都合は生じない。そして、世界を自由意志のレンズを通して見ることをやめ、ただの無意味なオブジェとして、そこらにごろんと転がそうではないか、と言いつづけたのが澁澤であり、種村でなかったか。世界は無意味なオブジェと化した瞬間からいよいよ謎めいた表情を帯びはじめる。言い換えれば、「自由意志を蝉脱して謎と化したオブジェとしてよみがえるのである」
 黒瀬さんを述べるに、タルホを持ち出したのは他でもない。稲垣足穂や澁澤龍彦や種村季弘と同質の「存在学的」稟質を私は黒瀬さんの作品に感じるのである。「PARADO ZERO」はひとつのオブジェになっていると言いたいのである。それでなくとも、「自らの水準基準」の変更を余儀なくさせる書き手などそうはいない。知的に屈折し、価値観の自在な顛倒を繰り返し試みる無責任かつ悪意にみちたこのものへ、私は敬愛の念を抱いている。



投稿者: 一考    日時: 2005年10月18日 20:34 | 固定ページリンク





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