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一考 | 堀口大学について

 高遠さんへ
 昨夜はありがとうございました。結局、間村さんと夜明けまで飲みました。菊地さんがあんなに遅くまで飲まれたのもめずらしく、装丁の大御所の揃い踏みとなりました。

 詩の要諦について貴方の貴重なご意見をうかがえたことに感謝。ありがたく思っております。かねてより、堀口大学の訳詩における文体の妙味にはこころ惹かれるものがあります。対象に即してあそこまで文体を遣いわける柔軟な姿勢におどろかされるのです。上田敏などにはじまる日本の近代詩は朗誦に重きを置いてきました。蒲原有明、薄田泣菫、伊良子清白、北原白秋、萩原朔太郎、日夏耿之介等々、訳詩だと山内義雄、村上菊一郎、齋藤磯雄と、これまた枚挙に遑がございません。
 日夏耿之介の例を持ち出すのが手っ取り早いと思われるのですが、日夏の詩は朗誦には打ってつけなのですが、あの固着した佶屈な文体でいろんなものを翻訳されると読み手は困惑するばかりです。翻訳という点を考慮するにせよ、さまざまな個性を持つ作家達の詩を同一かつ同質の日本語に置き換える、その無謀と云いますか、思慮のなさに呆れ返るのです。その点、堀口大学には矢野目源一を想起させる歌舞音曲の響影からプルーストを意識したであろうポール・モーランの訳に至るまで、おびただしい文体への配慮と(こだわり)の選択がなされています。そこには私の好きな婉曲への嗜好があるのです。迷い、逡巡、屈折、立ち徘徊る、どう言い換えてもよろしいのですが、堀口大学の「伸縮自在な発想」の核には「暫定」というべきものへの偏愛がごろんと横たわっていたのではないか。それを私は思想と呼びたいのです。



投稿者: 一考    日時: 2004年05月19日 21:28 | 固定ページリンク





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