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一考 | 宮園洋さんのことなど

 宮園洋さんの遺稿集「洋さんのあっちこち」がれんが書房新社から出版されている。宮園洋さんは2001年1月19日、岡山の自宅前で車に轢かれて逝った、享年59歳だった。
 1970年に出版されたバタイユの詩集は宮園洋さんの手になるもの、従って私が洋さんと出逢ったのは同年の春先ということになる。洋さんのみならず、この前後には桑原茂夫さん、菅原孝雄さん、大泉史世さんなど思潮社のおかしな人々と知り合った。
 1985年、雪華社での仕事にありついて上京、中野新橋に仮寓を構えてから洋さんとの酒宴がふたたびはじまった。中野新橋には洋さん御贔屓の酒場「なべや」があり、そこを一考も贔屓にせよと桑原さんから強く薦められたのである。
 「会えば酒。日付の変わるところで終わることはない。どこまでも」と和久井昌幸さんが著しておられるが、1989年までの4年間というもの、東京消防の編輯の仕事で洋さんが上京するたびに燗酒を酌み交わした。私が借りた家がもと料理屋で、家のどまんなかをカウンターが走り、業務用の冷蔵庫や1.5メートルの俎板が備わっていた。やがて行き場を失った編輯者の溜まり場となり、「なべや」ともども「一考亭」も大繁盛、洋さんと二人で鍋物や天麩羅をよく拵えた。
 東京を離れたあとも岡山の手帖舎や生協の雑誌の仕事を彼は回してくださった。明石と岡山をバイクで往復、三枝和子さんや山崎剛太郎さんのエッセイを掲載したのである。
 「洋さんのあっちこち」の前半は内田百けん(門がまえに月)論、後半には「東京あっちこち」と題するイラストレーションと仲間による追悼集が収められている。イラストレーションは根津の居酒屋「根津の甚八」やゴールデン街の「まえだ」など、ノスタルジックな風景47点を収録。洋さんの気質をそのままに、実に克明に描かれたペン画である。
 百けん(門がまえに月)論の第一話には「御馳走帖」に出てくる盛り蕎麦のはなしが著されている。

 ・・・蕎麦を正午に届けさせるために蕎麦屋を訓練し、その効あって蕎麦が届くと正午だと思えるようになる。しかし、外出していて正午が近くなると、家で蕎麦がのびるのではないかと心配し「八銭の蕎麦の為に五十銭の車代を払って」大急ぎで帰って来る。
 外出先の近くに名代の蕎麦屋があっても、「そんなうまい蕎麦は、ふだんの盛りと味の違う点で、まづい」と言下に否定する。この思いは、飼っている小鳥たちが毎日同じ摺餌をあてがわれているのは、その同じ味故にうまいに違いないと想像するに至る。この頑迷固陋とも思える屁理屈のような理屈が、合理的にはまってしまうところに百けん(門がまえに月)の面白さがある。
 百けん(門がまえに月)は、いわゆるグルメという人種の対極に位置している人のようである・・・その美学を解さない限り、百けん(門がまえに月)先生の方が理不尽に見えて来る。

 この辺りの消息はまるで種村さんの「食物漫遊記」を思い起こさせる。屁理屈の合理化にはまるとは不思議な夢の旅、地図のなかにしか存在しない町を彷徨い続けるようなものである。「いつまで経っても、行きたい場所に辿りつけない」のは著者そのひとではなかったか。というようなことを書けばはなしが長くなる。要するに、洋さんの百けん(門がまえに月)論はおもしろいのである。A5版320頁で2381円の安価である、その半分を百けん(門がまえに月)論が占めている。
 洋さんの奥さんが営む割烹の鴨鍋はめっぽう旨かったと書けば、こちらはこちらで「岡山の焼鳥」をなぞることにしかならない。いずれにせよ、岡山へのバイク行はしばらく続いた。風はひとのこころを掻きむしる。風を欲してバイクに乗るのか、バイクに乗るから風に出逢うのか、私にとってはどっちだっていいのである。今年の五月の連休、東京から広島までバイクを飛ばした。倉敷の手前から横殴りの雨になった。きっとあれは洋さんが出迎えにきてくださったのだと思っている。



投稿者: 一考    日時: 2003年11月25日 02:05 | 固定ページリンク





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