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80年を境に文学から聖性が喪われ、文学のカタログ化がはじまったと思っていたのですが、その聖性を簒奪する種蒔きをしたのは6~70年代に活躍した作家達、すなわちスポイルド・チャイルドの世代ではなかったかと。これは種村さんの朝日の書評を読んでいて気付かされました。
N井、I田の世代からS澤に至る「スポイルド・チャイルド世代の文学」との括りがこれから必要になるのではないでしょうか。だって、以降の世代はますます傍若無人に育っています。彼等が自己弁護の言質に前記作家達を利用するのは当たり前ではありませんか。これからはスポイルド・チャイルドの全盛期になりそうです。
同時代を生きた私は大きな過ちを犯していたようです。一抹の危惧はあったのですが、表現者の特権としてあの人たちの我が儘や傲慢さに目を瞑ってきたのです。そして、気付かずに私自身がスポイルド・チャイルド化していたようです。自ら構築した時代と文学を今一度ガラガラポンせねばならないようです。
西脇順三郎や吉岡実、永田耕衣や土方巽に見られる過度なまでの方法論、固着した精神や趣味性を呪い続けた彼等の瑞々しい屈折、固執を厭い休むことなく揺れ動く伸縮自在な発想、そうした自らへの懐疑のみが思想ではなかったのか。危惧と前述しましたのは他でもない、N井、I田、S澤等に見られる思想の希薄さを指してのことです。種村さんとは異なり、どうやら私はスポイルド・チャイルドには否定的な見解しか持てないようです。
もちろん、あの人たちの紹介者としての識見、換骨奪胎の名手としての評価は揺ぎないものです。もっとも、一口で換骨奪胎と申しても、I田が焼き直しならN井は本歌取り、S澤は趣意返しのごとき趣あり。前者がオリジナリティを前面に出し、後二者はオリジナリティを全面的に否定する。換骨奪胎の語釈の定義からはじめねば話はややこしくなりそうです。それは後日に譲るとして、例え井の中蛸壺の中であるにせよ、権勢を振るい君臨したのは事実。その君臨にスポイルドの原点を体臭を嗅ぎ取るのは易いことである。
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