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文学の原型を端的に示唆したものとして「人間というものは煎じ詰めれば消化器と生殖器から成り立っている」とのグールモンの言葉を援用し、「すべての文学は消化器系と生殖器系にわかれ、さらに拡大して考えるなら前者は屁の文学であり、後者は愛の文学である」と中重徹は結論づける。
中村幸彦を師と仰ぎ、興津要と共に「新編薫響集」(昭和47年、読売新聞社)を著した中重徹は明治30年鹿児島生まれ。沖縄師範学校を卒業後、熊本、福岡の中学校や高校で教鞭をとったという。前書における論理は明快、書誌学者に相応しい伸縮自在な思考を持つ、謂わば外道文学の達人。
中重氏はわが邦における放屁に関する戯文への評価の低さと屁と愛の不均衡を嘆く。日本文学の淵叢である古事記には、「生む」が250、「娶ひ」が164、「ほと」が8。それに対して「糞」が6、「屁」は0回。屁を等閑視する上代文学はすべて生殖器系文学であると。源氏物語を濡れ場のないポルノ小説と論断したのが誰だったかは失念したが、室町末期の一休、江戸中期の平賀源内、明治初年の団々珍聞に至るまで、日本のデカダンス文学はひたすら黙屁を続けてきたのである。
屁は、かのガルガンチュワのように、すかし屁でも風車を四つも回せるほどのエネルギーを内包する。また、昔ある大宮人は女のすかし屁をくって世をはかなみ、出家を思い立ったこともある等々、鞠躬如とした消化器系文学の復権を願う中重氏は、余人の偏見を人間性の歪曲を一蹴する。
わが親の死ぬるときにも屁をこきてにがにがしくもをかしかりけり
との犬つくば集の俳諧を「わが親ならばいかでかをかしかるべき。それををかしと思ふことの心あるものは、人の子にてはあるまじ、畜生にもおとりたるものなり」と評した松永貞徳を中重氏は断罪する。曰く「この句がそれほど親不孝なのかどうかの論議はともあれ、それを親不孝と思うところに貞徳の文学観のあさはかさとその俗人ぶりがうかがえる・・・元来『をかしみ』は緊張が大なれば大なるほど効果的なのである」
われわれは稲垣足穂、永田耕衣という共に1900年に生まれた屁文学の大家を識っている。中重氏が擱筆にさいし、「肛門の抜け落ちるほどの笑いを爆発させうる威力ある文学は、わが『屁文学』をおいて考えることはできない」と宣ってはや30年、鬼籍に入られたのを寂しく思うのは私一人か。
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