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一考 | いぶせき存在

 柊さんへの返事にて「当掲示板初の論争の真っ只中だったものですから」と書いてしまいましたが、論争などとあらぬことを口走りますと高遠さんに怒られます。あれはみすず書房に託けて著された高遠さんの言葉に対する信仰告白みたいなものでして、伊藤さんがみすず書房にこだわったところに掛け違いの端緒が生じました。
 高遠さんに限らず、物書きとお付き合いするには、全著訳書を通読し、生涯を賭して書き手が何を欲し何を訴えようとしているのかを了解致さねばなりません。謂わば空間的な場で相手の思惟するところを捉えないとならないのです。そして、書き手の好悪すなわち思想を共有できるか否かにすべてが掛かっているのです。その辺りの消息を了解しないで迂闊にものを申せば、拒否反応を喰らうだけです。
 一方、伊藤さんは手練れの書評家です。書評は難しい所作です、と言いますのは、対象たる書冊の存在をないがしろにして書評は存立しません。でも、書評の本懐は対象たる書冊の存在を突き破ったところにあります。理解して頂きたいので繰り返します。対象たる書冊の存在を通り越して読者を異なる領域へと誘うところに書評の醍醐味があるのです。
 しかるに、今回の伊藤さんの論旨は当初よりポリティカルな方向に振られていました。高遠さんのような文学馬鹿(最大の尊敬の念を込めて)にそれは通じません。ポリティカルならポリティカルで結構なのです。晩年のジャン・ジュネが仮説としての人生の設計図を拒否し、生きて行く課程で先天的な概念と後天的な概念が絡み合って新たな概念構成がなされて行くとのラジカルな弁証法をパレスチナの地で証明しようと試みたように、であれば。
 伊藤さんの踏み込みがもう少し深く、存在の悲しみに肉薄するような相貌を帯びていれば対話が成り立ったのかも知れません。書評を多く著されて来た伊藤さんであればこそ、書物の呪縛から逃れ得なかったと申せば言い過ぎになりましょうか。
 助け船を出したつもりだったのですが、返答のタイトルが「本音とタテマエ」では、火に油じゃないですか。ボオドレエルの「鏡」のことだけを書けばよろしかったのに。

 高遠さんに一言。貴方が仰るように、私もインターネット上でのやりとりはあまり好きではありません。確かに、文章にこだわらずに書かれているからです。でも、世の中には書物を繙くことすらかなわず、ネットだけが世界への唯一の窓口という方もいらっしゃいます。その理由にはたって触れません。私はそういう方のためにこそ、ネット上の南柯書局を起こしたいと願っております。
 貴方も私も本音だけで生きようと極力勉めています。立前を拒否し、本音のみを己が趣旨とするならば、著すところのものすべてが鬱悒きわざくれではありますまいか。さらに申せば、貴方や私のような存在それ自体がいぶせき存在なのではないでしょうか。
 掲示板はお薦めできません。貴方を当掲示板に引きずり込んだことが悔やまれます。相済まぬことを致しました。しかし、貴方が著される言葉への信仰告白をいまもっとも必要としているのはインターネットなのです。かつてのテレヴィジョン同様、生まれたばかりのよちよち歩きのインターネットが表現としてのメディアに脱皮できるかどうか、これから正念場が始まります。オンライン・ゲームやチャットを愉しむような下司な輩に興味はありません。しかし、「ぼく」を厭う読者は少数ですが常にいます。そういう人達はこれから表現力を持たねばならないのです。例え半歩でも、より呪われたメディアに近づけんがため、これに懲りずに一方通行での発言をお願い出来ますまいか。



投稿者: 一考    日時: 2002年03月19日 18:49 | 固定ページリンク





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