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金光寛峯 | フランチェスカの斧を見て

りきさんへ。
私にはあなたのことを人形愛好家と評するよりほかに言葉がなかった。
一度、あなたがお買いになったムットーニの値段を、あつかましくも尋
ねてみたことがありましたっけね。一年間節制して貯めたという額にお
どろいて、
 「ぼくだったら『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』の初版本買
  うなあ。やっぱり高いんだねえ」
とつぶやいた私に、いいやそれは違うぞ金光おまえは分かっていないね、
けっして高くなんかないんだと、それからはえんえんと、いかにムットー
ニさんがファン思いであるか・価格も手間暇にくらべてどれだけ安く抑え
ているか・できるだけ多くの愛好家に作品が行き渡るようにと考えていて
云々…… を夜中の電話でじゅんじゅんと説かれたあなたのことを、そう
してまた、天野可淡を見てきた興奮を熱っぽく語ってきかせてくれたあな
たのことを、ほかにどう呼んだらよかったのでしょう。
………これではなんだか弔辞ではないですか。止めよう!
それより<フランチェスカの斧>展について書いておかねばなりません。

人形屋佐吉ゴシックコレクション<フランチェスカの斧>聖バレンタイン
の天使と人形たち
2002.2.9~18まで、人形屋佐吉協催
台東区元浅草1-8 銀線ビル地下駐車場にて
1ドリンク千円

「《殉教》という、このうえなく荘厳で甘美な響きに彩られ、語られてきた
人、聖バレンタイン」, 「天草四郎・フランチェスカ(恋月姫作)を始めとし
て、天使が潜んでいるような人形たちとその殉教記念日にまつわるものたち」
をテーマに集めた (パンフより) 人形展。
まずいきなり目に入るのが中世風の装飾過多な服で着飾って身を横たえる女性、
ミロのヴィーナスは両手だけど、彼女は首を叩っ切られている。そのかたわら
にはべているのは、日本の童人形の首がいくつか、座布団の上に乗せられて甘
やかに微笑んでいるという構図。
刳り貫かれた眼窩から鮮血を流す、可愛らしい無惨の部屋の少女 (恋月姫作)。
ここにはおいしい残虐がある。
きらびやかな筆致でつづられた随筆集『鬼の言葉』は、江戸川乱歩著作のなか
でも屈指の一本でありますが、その中に収められた「残虐への郷愁」において、
残酷絵の大蘇芳年を "ほんとうの血の夢を知っている" と称賛します。

石子責め、鋸引き、車裂き、釜ゆで、火あぶり、皮剥ぎ、逆磔殺などの現実を享楽し得るものは、神か、無心の小児か、超人の王者かであって、現実の弱者である僕には、それほど深い健康がない。しかし、それらのものが、一たび夢の世界に投影せられたならば、たとえば、その実父を殺し、その実母と結婚しなければならなかったエディポス王の運命の残虐を歌った、あのギリシャ悲劇さえも、たとえ当時のギリシャ看客のような力に満ちたほがらかな現実感をもってではなくとも、又別の、もっと幻影な国的な恐ろしさで、享楽することができる。
(中略)
神は残虐である。人間の生存そのものが残虐である。そして又本来の人類が如何に残虐を愛したか。神や王侯の祝際には、いつも虐殺と犠牲とがつきものであった。社会生活の便宜主義が宗教の力添えによって、残虐への嫌悪と羞恥を生み出してから何千年、残虐はもうゆるぎのないタブーとなっているけれど、戦争と芸術だけが、それぞれ全く違ったやり方で、あからさまに残虐への郷愁を満たすのである。芸術は常にあらゆるタブーの水底をこそ航海する。そして、この世のものならぬまっ赤な巨大な花をひらく。
芳年の無惨絵も、また彼女たちも、 "幻影の花園の小さな可愛らしい一つの花"
にほかなりません。
芸術において <残虐美> はつねに主要なテーマのひとつでした。文学において
もいわゆる怪奇小説, 怪談として繰り返し語られてきました。なにゆえに、ひと
はこの主題に惹かれるのか。
何十年か前、「おフランス帰りのミーの思想に逆らう奴は死刑ざますーーっ!」と
ポル・ポトが叫んだとき、カンボジア人民数百万の運命はきまりました。この世に
悪魔なるものが実在して、二十世紀の ――そして現在進行中の―― 地獄を演出し
たのがかれらのしわざだったのならば、ある意味ひとは救われます。
ですが、人間を傷つけるものは人間自身にほかなりません。"人間の生存そのものが
残虐" であり、 "人類が如何に残虐を愛したか" をまざまざと思い出さずにはおられ
ません。残虐美を主要なモチーフとする怪奇小説も、 "恐れるということは護るとい
うことで、人間の弱小の本音みたいなものだ。けっきょく、妖怪趣味というものは、
人間の霊魂に対する潜在意識の郷愁みたいなものかもしれない" (平井呈一) と考える
ことができるのではありますまいか。人間の、霊性とでもいうべきものを、いかに美し
くまたリアルに描き出してみせるか、私の嗜好はそういうところにあります。

天野可淡についても触れておかねばならないでしょう。やはりまず眼に惹かれます。
石神さんもお書きになられていますが、ほんとうに息がかかるほどの間近で鑑賞する
ことができました。
「どうやって作ったらこんな眼ができるのだろう」と、じぃっと観察していました。
奥眼がちで、精妙な色彩を持っています。するうち、今度は少し引いて全体を眺めます。
どうでしょうか、この佇まいといったら。
正直言って展示の大半の人形は、フンフンほうほうとかいって軽く流した鈍い私も、
天野人形だけはしばしその場に止まらずにおられませんでした。力がある、という形容
はまさにこれを指していうのでしょう。
人形とはここまで出来るものなのだとは、今まで知りませんでした。



投稿者: 金光寛峯    日時: 2002年02月23日 01:43 | 固定ページリンク





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