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一考 | シェイクスピア

 ギリシアのサッフォーやイビコスの時代、イギリスのシェイクスピアやダンの時代、それに十九世紀のロマン派に見られるバラードやエレジーやオードなど、夢幻的で甘美な情緒に裏打ちされた叙情詩こそ擬古文に相応しいのではないかと思っています。とりわけシェイクスピアは套言の百貨店で、彼の作品はありとあるコラージュやアッサンブラージュの恰好のお手本ではなかったかと思います。今日、シェイクスピアの言葉(剽窃)がステレオタイプとして用いられるのを見ているとシェイクスピアの偉大さにこころを致さねばならなくなります。ブルトンに倣えば、シェイクスピアは作法においてシュルレアリストであり、彼こそが詐欺師楽園の巻頭を飾る作家ではなかったかと。
 冗談はさておき、春のやおぼろこと逍遙が訳していなければ平井呈一氏や齋藤磯雄氏の雅文にはぴったりの具材だったと思われます。
 ウォルター・リップマンはひとがステレオタイプに固執する理由をふたつ述べています。ひとつはひとの環境適応におけるステレオタイプの経済性、いまひとつはステレオタイプの体系はアイデンティティの核心であって、自我防衛のメカニズムであるとの指摘です。この経済性は、ステレオタイプに頼ることなく日常生活に生起するできごとを端から詳細に知覚しようとすると大層な労力が必要であって実際上不可能である、とのことだそうです。
 いずれにせよ、危惧すべきはステレオタイプはひとから考える能力を簒うという点にあります。個はしばしば文化と衝突します。従って、文化からまず排除すべきなのは定義づけであり、類型化なのだと思っているのです。シェイクスピアはそれを逆手に利用しました。「虚偽も極限に達すればいささか誠実めく」というところでしょうか、彼の虚無主義には大いにこころ惹かれるものがあるのです。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月11日 20:35 | 固定ページリンク





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