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一考 | 教育基本法改正

 その昔、須永さんの著書を印刷するに際し旧字との闘いを強いられた。
 明治にはじまって戦後の当用漢字(現常用漢字)の指定に至るまで、否、それ以降も輓近四代にわたって金属活字に対する規制や制限はまったくなされていない。木版活字にまで遡っても消息は同じである。江戸時代の黄表紙本では変体仮名やさまざまな書体が駆使されている。仮名遣いの論争こそしばしば起きているが、定家仮名遣いが規範として強いられることはなかった。権力者が国語に深く関与しないのはわが国の古くからの伝統なのであろうか、当用漢字にしてからが、単に指定したまでであって強制力やペナルティを伴うものではなかった。そして、当用漢字や現代仮名遣いの制定に占領下の民間情報教育局(CIE)はなんら関与していない。
 アジアではタジキスタンに次いで日本の識字率は高いとされているが、わが国の調査では被差別部落民、障碍者、病弱者などが調査対象から一律に排除されつづけた。個としての人格を重んじ、教育はその人格形成に資するものとし、国は教育に奉仕しなければならない、そこに戦後の教育基本法の骨子があった。そして識字率をさらに上げることに目的があり、それから後は個々の努力を促すところに戦後教育の理念があった。漢字にとどまらない、内閣告示の「現代仮名遣い」では「歴史的仮名遣は尊重されるべき」と著されている。
 思うに、新字新仮名を普及させたのは「自主規制」の名のもと、組織の利益をのみ追求した新聞社や出版社を中心とするマスコミではなかったのか。新聞は自社で印刷するのだが、文字数が少なければ少ないほど、文選・植字工の人件費が安く済む。さらに、活字は磨耗するので再使用できない。直刷りだと、膨大な量の活字代をすべて負担しなければならない。旧漢字を用いた時の印刷費用は、昭和四十年の段階で既に略字による印刷の二倍を越えていた。それを防ぐために編み出されたのが、組版からフィルムを起こして刷版を作る、もしくは紙型を取っての鉛版刷りである。しかし、それでは何のための活版か分からなくなる。とは言え、利潤を追求する多くの出版社は略字による活版印刷すら却けてきた。それは書物の生命線ともいうべき糸縢りを捨てて顧みない現在になお受け継がれている。
 はなしは旧字、略字にとどまらない。渡辺の辺には六十五種類、斉藤の斉には三十一種類、佐藤の藤には十四種類、高橋の橋には六種類の異体字が謄本や住民票で用いられている。かつて当掲示板で改名について書いたが、明石の市役所で六十五種類の「辺」を見せられて愕然とした。まるで八百屋の店先で今日の「なべ」に入れる具材はどれにしましょうかと、品定めをさせられているような塩梅である。
 異体字が際限なく膨らんだ理由の半分は謄本をデジタル化するときの書き文字の判読にあり、あとの半分は官による字体の統一がなされなかったところにある。之繞の崩し字の「てん」が繋がっていればひとつ、分かれていればふたつ、といった滅茶苦茶な分類・識別が繰り返されたと担当者から聞かされた。
 国家や政府による規制の有無に対して私は意見を持たない。ただ、「りったつ」の「てん」や「そうへん」または「はね」や「かえりてん」のように、字形の異なる母型が無数に存在する理由はすべてを民間に委ねたところにある。
 この問題は新JISにもそっくりそのまま引き継がれている。日本語には統一されたunicodeが存在しなかったのである。マイクロソフトは早くから文字制限の撤廃を薦めてきたが、自社コードをスタンダードにという日本メーカーのエゴ、一般のパソコンで印刷所なみのフォントが揃えば商売に差し支える、大衆はそのようなものを求めていない等々の理由によって無視されてきたのである。
 撤廃の口火を切ったのはマックのシステムOS Xが掲載したオープンフォントである。2005年7月末にマイクロソフトが方針を示したJISは、そのまま次世代基本ソフト「ウィンドウズ・ビスタ」にも搭載される。問題になった「侠 倶 呑 填 掴 焔 痩 祷 箪 繋 繍 莱 蒋 蝉 蝋 醤 頬 顛 鴎 」の十九文字は旧字と略字の双方がそのまま組み込まれることになるらしい。
 いずれにせよ、自らの国語すら外圧にたよらなければなにひとつ進展しないし決着をみない、日本人の不甲斐なさにはただただ呆れ返るばかりである。南堂久史さんの発案であるにせよ、要はアメリカさんのお陰で第四水準までは自由に使えるようになった。マイクロソフトは早晩、第六水準までは入れると宣しているが、それに対して「略字を消すな」と騒ぎ立てている日本人の誤解は滑稽ですらある。
 ところで、私は新字新仮名の信奉者でもなければ旧字歴史的仮名遣いの信奉者でもない。言葉はそんなに単純に割り切れるものではないだろうと思っている。好きにすればよろしいのであって、略字なら略字の、正字なら正字の正当性を囂しく述べ立てること自体がおよそ非文学的な行為ではないかと思う。文学とは二者択一のような対立的・図式的なものの考え方を否定すると同時に、安易な弁証法的統一をも等しく拒むものである。表現とは重層的なものであり、トポロジックな並存という場に常に行き着くものである。

 はなしはこれでお仕舞いである。ただ、ここで終わったのではいささか毒素に欠ける。以下は例によって与太話である。
 首相の初仕事は秋山収のあとを継いだ内閣法制局長官坂田雅裕に詰め腹を切らせることであった。次いで最高裁長官の首が挿げ替えられた。集団的自衛権の行使を容認しないとの憲法解釈を担ってきた、憲法の防波堤とも言うべき内閣法制局を一気に突き崩したのである。
 憲法改正の前に教育基本法を改正しなければならない。教育基本法は、教育を国家の奉仕者たらしめる「教育ニ関スル勅語」から教育それ自体を解放するのが目的であった。それ故、前文には基本法と憲法の一体性が明示されている。謂わば憲法第98条のようなもので、憲法改正を実現するためには、まず教育基本法の前文を削除するか書き換えなければならない。その教育基本法の改正案は来週には衆議院によって可決される。
 かつて、教育ニ関スル勅語の原案は内閣法制局長官の井上毅と枢密顧問官の元田永孚によって起草された。骨抜きにされた内閣法制局に命じられるのは「教育ニ関スル勅語」パート2である。正字・正仮名遣いを国是とする美しい国日本は安倍晋三のような国家主義者にしか創られない。保存すべき価値の積極的な選択を前提とする丸谷才一や大岡信のような文化的保守主義者は狂気して喜ぶのであろう。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月09日 12:10 | 固定ページリンク





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