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一考 | 大きなお世話

 中重徹の「新編薫響集」について書いたことがあると思って、検索を試みたが出てこない。検索の仕方がまずいのだろうか、どうもよく分からない。櫻井さんに教えを乞うたところ、過去ログの一部が壊れているらしい。しかし、過去ログがあろうがなかろうが、私にはどうでもよいことである。どのみち、似たような繰り言を飽きもせず書き継いでいる。
 「新編薫響集」に触れた「断屁断笑」では、伸縮自在な思考こそが書誌学者には相応しいというようなことを書いた。その証明を芭蕉にかんする書き込みで試みたのだが、何時のことかは覚えていない、従って重複を気にせず、勝手に書きはじめるとする。
 学問としての書誌学の対象に現代文学は入っていない。多くの先達の努力によって、やっと江戸文学が書誌学者の考証の対象になったばかりである。逆に言えば、書誌学がなければ江戸文学が学問の対象にならなかったのである。
 小出昌洋さんの手になる「日本随筆大成」などはそうした努力の好例であろう。と書いてみたところで、五年も経てばひとは老いもし、若返りもする。人生は「少年や六十年後の春のごとし」である。その人さまの為事であれば、たとえ学問と言えども変化するにしくはない。現今の作家の著書目録に書誌とか書誌学といった大仰な字句を用いるのに私はいまなお抵抗を感じるが、それが時代の趨勢ならなにも言わない。ただ、書誌学の本意は既存の学問を遠く離れ、対象を縦横に批評するところにある。従って、書目録や年譜の類いはそのための基礎資料にしかす
 国文学者の見る芭蕉、歴史学者の見る芭蕉、俳人の見る芭蕉、言語学者の見る芭蕉、精神分析学から見る芭蕉、地方地誌から見る芭蕉、さまざまに異なる芭蕉をひとつの象に結ぶのが書誌学者の責務とでも言っておこうか。
 私が言いたいのは、ひとつの種類のアプローチ、すなわちスタイルや様式美は文学の世界にあってはなんの役にも立たないということである。医師が患者を診るに際し、問診、血液、尿、心電図、エコー、レントゲン、CTスキャンとさまざまなアプローチを試みたうえで病名を判断するように、批評にあって最重要なのは書き手の対応の柔軟さと気配りの多様さであろう。これ以上、自分が変わりようがないと思われるまで、アプローチは繰り返さなければならない。その繰り返しがアクティブの証左ともなる。
 スタイルや様式美は丸ごと存在するのであって、考証や論証の対象には成り得ない。ダンディスムなどという俗流と同じで、切り分けたり一部を除去するのは適わない。芸術を生の高揚、陶酔としてとらえようとしたニーチェを持ち出すまでもなく、それらはそっくりまるのまま肯定するか否定するかしかないのである。そのあたりの消息は長野順子さんの論考を繙かれるのをお薦めする。そして、そのような全体主義的、排外的理念に私は組みできないでいる。
 読書の醍醐味は、読む前と読んだあとではそのひとの価値観なり世界観に変化をもたらすことにある。だからこそ、読書にあって問われるのは、書物に対するアプローチの多様さである。多様さの持ち合わせがなければ、好悪で判断するしかなくなる。問われているのは常に繙く側であって、書物の側ではない。そこへ「自己本位」などというしみったれた趣味性を持ち込むのを本末転倒という。肝胆相照らすような読書は毒にも薬にもならない、自身の価値観なり世界観に変化をもたらさない読書ならやめちまえ、と叫びたくなる今日この頃である。



投稿者: 一考    日時: 2005年11月10日 23:38 | 固定ページリンク





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