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一考 | 「馬込の家(室生犀星断章)」伊藤人誉著

 龜鳴屋から新刊が上梓された、伊藤人誉さんの「馬込の家(室生犀星断章)」である。このところ多忙で紹介が遅れた、勝井隆則さんにお詫び申し上げる。
 「小景異情」に著された猫が首をくくる話や玄関を閉め切って物置きがわりに使うはなしは私にも経験があって、興味深く読ませていただいた。つづく第五章は短いが、犀星の小説の特異性である「執拗な粘り」がうまく活写されている。この「執拗な粘り」にみられる犀星の屈折した女性観にはかねてから興味を抱いている。荷風にとって女性は性的玩具の対象でしかなく、鏡花にとっては信仰の対象でしかなかった。「でしかない」と言わざるを得ないところにひっかかりを覚えるのであって、排泄であろうが信仰であろうが、そこにそれほどの差違があるわけではない。一方、徳田秋声や徳田秋江のような情念や怨恨とのいたずらなクリンチにも疲れを覚える。その点、室生犀星や谷崎潤一郎の屈折といおうか、気質に私はこころ惹かれるのである。
 「馬込の家」の最終章のタイトルに用いられている「女ひと」は犀星の作品のなかでも傑出した一本だが、正・続の「随筆 女ひと」のあとを追って「随筆 硝子の女」が上梓されている。巻末の「消える硝子」の書き出しを紹介したい。

 ガラスの女といふのは、たださう言つただけで硝子のやうな女がゐるとも、ゐないとも言ふ譯ではない、ことばが透明で美しいからさう附けたのである。けれども私はひそかに硝子を透かして見た世界とか、女とかいふ意味も考へてゐたのである。も一つは何時も硝子の壜の中に、ずつと何十年か前の記憶がアルコール漬になつてゐて、見ようとすれば何時でも、そこに記憶の山河があり女の人も見られるふうに考へてゐた。むかしの人はアルコールの中で、まだ生きてゐるとも言はれるのである。このアルコール漬がなかつたら私は小説なぞ書けないのだ、普通の化学実験室なぞとちがひ、私のアルコールの壜も時々新鮮な液体に取りかへられ、漬けたものが変色異常を呈することはなかつた。或日の私はガラスを透かして見た顔に二重の美しさを見附け、ガラスの中に誰かが泳いでゐる閃きを感じたものである。

 この二年後に川端康成の「眠れる美女」が上梓されている。一連の犀星の作品が川端に影響を与えたなどと思いをめぐらしてみるのも愉しいではないか。
 戦時下の馬込の家を舞台にした第八章と第九章は圧巻。「談柄の妙はさすが伊藤さん。資料的な意味もさりながら、読物としてダントツに面白く思った」とは社主勝井さんの弁だが、たっぷりと元手を掛けた資料収集と適度に抑制を効かせた文章との絡みが巧く、犀星に託つけての伊藤さんのイデエの発露の方法論に感心させられた。表現者とは妙なもので、対象がなんであれ、要は対象に託つけて自らのことを著すのである。手に負えない対象を相手にすれば、書き手の寸法が測られてしまう。コンプレックスの不在に立ち会えば、書き手の人目を憚る劣等感や負い目が剥きだしにされてしまう。その辺りにエッセイの妙味がそして怖さがある。
 「俺たちには、これが自分のだという姿なんぞありはしない。お前さんのお好み次第で、お前さんが俺たちにお望みのどんな姿にでもなるのさ」とはハイネのある舞踊劇台本の前書きに登場する悪魔の言い種だが、伊藤人誉さんの書きものにはどうやらそう言った価値観の自在な顛倒がそこらじゅうに仕掛けられているように思う。前述の悪魔を前にして莫迦と思えば自分が莫迦なのであり、思慮深いと思えば取りも直さずそれは自らの思慮深さの証明なのである。すぐれた表現者はそうした魔性を内に秘めている。
 「馬込の家」第十章からの引用、

 私は犀星がじっとものを見ているとき、次第にその中に移入してしまうのではないかと思っている。見られているものが感じているように思われる感じを、自分でも感じているのではなかろうかという気がする。たとえば縁側の日なたにいる猫を観察しているとき、自分を見返している猫の気持ちを感じているのではあるまいか。川でうなぎを捕っている川魚師のことを書いているとき、膝まで水につかったその男の気持ちばかりでなく、石垣の穴にひそんで人間のすることをじっとうかがっているうなぎの気持ちも感じているのではあるまいか。あるいは樹の上でこごえているなめくじの気持ち、ぎんいろの蛇のような女の指の気持ち、張り詰めている氷の気持ちさえ感じているのではあるまいか。

 ここには犀星との対置はなく対峙もない、あるのは共棲であり同化であって、見るものと見られるものと言った二元論がきれいさっぱり欠如しているのである。深沢七郎や島尾敏雄や井伏鱒二のそれと同じくトートロジックな重語法によって、文学の原器的形態が述べられている。さるにても、伊藤人誉とは恐るべき作家である。
 「馬込の家」の「あとがき」には「室生朝子の結婚の裏話や、犀星の父親についての私の疑いや、晩年の犀星をめぐる女たちの話を書き加えた」と著されている。「女ひと」の章が「晩年の犀星をめぐる女たちの話」にあたる。この一章を以てしても、過去余人によって著された犀星論が書き直しを余儀なくされるのは必定である。犀星のファンのひとりとしてまた伊藤人誉さんのファンのひとりとして、本書を産み落された勝井隆則さんに満腔の謝意を表したく思う。

 「馬込の家」は部数を五百五十部に劃っての印行である。頒価は三千二百円。ですぺらに在庫有り、乞うご購読。



投稿者: 一考    日時: 2005年07月29日 04:23 | 固定ページリンク





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