ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





« 前の記事「出張パソコン修理屋です」 | | 次の記事「無事インストール」 »

一考 | 点・点・点

 拠ない事情によって、この連休はどこへも行かれなかった。せめてひとりで西伊豆へキャンプに行こうと思い立ち、二年ほど乗っていない小型のバイクを引っ張り出した。始動に成功したので一万円をはたいてバッテリーを購入したものの、まったく走らない。予測通り、キャブが詰っている。ひょっとすればチャンパーも詰っているかも。修理する気にもならず、ふて寝の繰り返し、この五十八年間で最悪の大型連休と覚悟した。
 四日夕、宇野さんから電話、東十条から新宿へと飲み流れた。なべさんではマクレランズが用意されていた。宇野さん、會利さん、菜穂ちゃんと呑むアイラモルトは美味い。連休が最悪から救われた一夜、感謝を込めて八つ当たり気味に宇野さんに喰ってかかる。
 ジュマンフーヴィスムへの信仰告白を過日書いたが、人生にとりとめなんぞあってたまるかと思っている。それでなくても、わが範は辻潤にある。私は野村隈伴について、菜穂ちゃんは和田久太郎について語りはじめる。ゴールデン街の夜はアナーキーでなければならない。
 ますます息苦しく、生きにくくするのが生来の性癖のようなものである。世間をどこまで狭めて生きて行けるのか、馬鹿な実験を常に現場に持ち込んでいる。来年の連休までキャンプは控えようかとも思っている。
 世間を狭めるとは自らを狭めることに他ならない。例えば食事に関して気に入らないことがあって、私は一日一食のり弁当を三年間つづけた。のり弁当が好きなのではなく、なにを食するかを考えるのが嫌なのである。要するに煩わされるのが真平御免なのである。
 會利さんが宇野さんを指して「点・点・点のひと」と云うが、言い得て妙、すぐれた疑問詞だと思う。それにあやかるなら私も「点・点・点」に浸りたいのである。自己であろうが他者であろうが、統一的理解とか統一的解釈とか云う実証の類いに嘔吐が出る。第一に、自己と他者とのあいだのどこに垣根があると云うのか。他者の言動によって自らが搖れ、己の言動によってひとは迷う、存在はその大略が暫定的なものである。書物という名の大きな謎、そして聳える他者。書物という名の他者は同化と解体の繰り返しを私に命じた。
 答えはどこにもない、だからこそひとは彷徨う。そして徘徊のひとつに物思いがある。振動や振幅への欲求は私の身体に深く刻まれている。物思いに浸るのに相応しく思うのが海辺である。だから私は海辺のキャンプ場を好む。物思いが、妄想であろうが気晴らしであろうが気分転換であろうが委細かまわない。要は情念のいささかの解放であるはずなのだから。それ故、キャンプ場の周辺に温泉があろうがなかろうが、バーベキューの具材が肉であろうが海産物であろうが、そのような添え物に私は興味がない。例えモヤシだけであっても結構、私は「点・点・点」を求めて西へ東へ遁走するのである。
 年に一度の機会に活用できないようでは道具でない。単なるコレクションに興味は抱かれない。キャンプ道具はこのまま封印するか売り払うのが賢明かと思う。キャンプであろうが食い物であろうが女であろうが友であろうが、それを求めて煩わされるのであれば、なにもいらない、なにもしない。その覚悟がなくて世間を狭めるのは世迷いごとにしかならない。



投稿者: 一考    日時: 2005年05月07日 18:44 | 固定ページリンク





« 前の記事「出張パソコン修理屋です」 | | 次の記事「無事インストール」 »

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る