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一考 | 矢野峰人のことなど

 高遠弘美さんへ
 矢野峰人訳のルバイヤートは装丁なさった間村俊一さんから頂戴しました。
 貴方が解説で一部触れておられる上田敏、厨川白村、矢野峰人、戸川秋骨、平田禿木、竹友藻風、山宮允、片山広子、森亮などを私も憑かれたように読みました。そのうち、矢野峰人と戸川秋骨には全集もしくは選集の類いが上梓されていません。かつて大泉史代さんが「世紀末英文学史」を、先だって小出昌洋さんが「猟書今昔物語」を編纂なさったように、単行本でよろしいからつぎつぎと上梓されるよう望んでいます。
 十代のときのはなしですが、田村書店に日孝山房の刊本一括が出ました。従って、私が最初に読んだ矢野峰人のルバイヤートは西川満が上梓した「四行詩集」でした。また、大雅洞の本はその大半を新本で購入しておりました。
 当時、どこの古書店にも並んでいたのが「思舊帖」、もしくはその元版だった「半面像」と「途上」あたりではないでしょうか。後者では晶子の「君死にたまふことなかれ」に対する桂月と劍南との論争、また晶子自らの反駁が収録された「ひらきぶみ」を引用、

 私は晶子のために辯護しようとして居るものでもなく、また桂月の所説をば、強ひて是認しようとするものでもなく、たゞ過去を囘顧する序に、むかし詩歌壇の一話柄となつた事実を紹介し、史料を提供しつつあるに過ぎない。されば、私は、今、「温藉」を以て詩歌の骨髄となす桂月の見解の是非を論ふ意志さへない。

と書きながら、数頁あとでは、

 何等の危険性無きものを危険視し、更に大声疾呼してこれに衆目を集むるが如き軽挙妄動こそ、実は最も危険なのである。・・・況や、公器に拠つて、社会的地位ある人を国賊呼ばはりするに至つては、それこそ危険極まるものと言ふべく、刑罰は斯かる輩にこそ加へらるべきである。

 さらに「桂月は文芸批評家として無資格なる事を茲に完全に暴露したのである」と結論づけ、桂月が示唆する「皇室或は国家に対する毒舌悪口」「反帝国主義思想の表示」を峻拒、その筆鋒は痛烈を極めます。しかも矢野峰人が「君死にたまふことなかれ」と題するエッセーを雑誌に掲載したのが戦争たけなわの昭和十七年。あっぱれ、毒にも薬にもなるきわやかなエッセーでございました。
 装丁に関して一言。裏表紙の王様の顔は間村俊一さんそのもの、そのようなことを書けば間村さんが怒るでしょうが、あれはきっと自画像、彼お得意のコラージュですよ。
 西川満が主宰した日孝山房は台湾の布や手漉き紙にこだわった限定本書肆、島田謹二訳アランデル・デル・レーの「のって・う゛えねちあな」なども愛読書の一でした。また西川満は「七宝の手筺」「赤嵌記」など数冊の小説集を著していますが、後者はオー・ヘンリーやダールを思わせる異色の短篇小説集、ぜひお読みくださらんことを願います。

 はなしついでに、先日、間村さんと酔いどれて百万遍から銀閣寺町辺りのはなしになったのですが、若かりし頃夢二のモデルだった女将が営んでいた東今出川通の「夢二」に彼は入浸っていたそうです。百万遍の「梁山泊」は手もと不如意にて行くことかなわず、専ら寺町界隈の縄のれんか「夢二」をアジトにしていたと。間村さんと私は八歳違いですが、彼が同志社へ通っていた年頃のころ、私は四条河原町の労働会館で人文書院や京都書院の仲間と飲んだくれていました。おおかたの飲み屋のはなしは通じたのですが、千中はまったく知らないとのこと。じつは、京都千本中立売を西へ入り、愛染寺の斜向かいにあった小さな飲み屋がこころの引き出しに蔵われています。上田敏、厨川白村、矢野峰人が贔屓にした居酒屋で、鮒の洗いを喰わせる店でした。京都書院裏の「山一」同様、赤ら顔の店主と割烹着のよく似合う痩身の女房が二人で営み、カウンターの背に設けられた小さな卓子席でいつも赤子が泣いていました。はじめて行った折に座った席が先代のころは矢野峰人の席だったと聴かされて、周章てて席を変えたものです。
 当掲示板をお読みの方で、その千中の飲み屋の屋号をご存じの方がいらっしゃればご教示いただきたいと思います。四十年近く前のはなしですが、間口は二間ほど、細長い飲み屋で、入って右にカウンター、左にふたり掛けのちいさな卓子が三つあったと記憶します。



投稿者: 一考    日時: 2005年02月03日 02:55 | 固定ページリンク





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