ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





« 前の記事「幻の猫つづき」 | | 次の記事「失礼ながら」 »

一考 | そのまたつづき

 高遠さんへ
 私にいささかヒステリカルな発言をお許しいただきます。もっとも、いつに換わらぬ人生幸朗と行方幸子流のぼやきですが。

 「編輯が生業の一端になりかけた時、私はご免を被らせていただいた」と先日著しました。収入すなわち下心が絡むと編輯者は勤め人になります。金銭尽くの出版であればリスクのない私家版を多く手掛け、それらの書き手に「あんたが大将」と媚を売らねばなりません。そんな形で出版をつづけるのであれば、ニコヨンのような肉体労働の方が私には気が安まったのです。からだを担保に小金をこつこつ貯めた結果が飲み屋の親爺です。それもこのところ、風前の灯なのですが。
 「マスコミが、売れれば何でも、といふ目算で動いてゐるとき、どうして殆どの物書きが黙つてゐられるのか不思議でなりません」
 先日、記載した新聞社や出版社には友人が多くいます。私自身お世話になっています。でも、あれらの紙誌を購入するひとは、逮捕された日に「やましいことはなにもない」とうそぶくような役員を頂く三菱自動車の車を買うにも似て、売上げのためにはひとを貶めようが、殺めようがお構いなしというのと同じではありませんか。
 私にとっては物書き以上に編輯者がどうして黙して語らないのか、そちらの方がよほど不思議です。編輯者にとって発言とは本を拵えることであって、その書冊はとりもなおさず自らの志の表明でなければなりません。造りたい本があれば結構、一冊でよろしいではありませんか、あとは沈黙すればよいのです。企業の論理を出版に持ち込む、そのお先棒を担ぐようなひとのどこが編輯者なのでしょうか。まずは売上げが大事ですから、などというしたり顔は見飽きました。龜鳴屋の勝井隆則さんがごとき破滅型のあとを追うすじの通った編輯者がなぜ生まれないのでしょうか。
 ですぺらのお客さんにはあまりにも編輯者が多いので話題を変えます。薫子さんから叱られそうです。

 これまで「文学」などという概念はどこにも存在しなかったのです。だって表現者の数に比例してさまざまな「文学」があったからです。ところが世はあげてミステリー時代、かかるエンターテインメント一色のなかにあってはそれらしきものすなわち「文学」を明瞭に示唆することが可能になってきたようです。どうやら、ひどい堕落が根付いてきたようです。元来、表現者が追うのは「他の作品とはひと味ちがう小説」であったはず、ところが、いまでは自称編輯者が需める「柳の下」へと作家たちが群がるのです。足穂ではありませんが、おそらく書き表すに足ることはひとつ、そして一度のみ。それが世に受け容れられるかどうかは偶然の骰子、要するに編輯者との出会いに賭けるしかないのです。
 意識するところの私が常にいる、との呆けたシニシズムに浸っておられるほど脳天気なあいだはよろしいのですが、ひとはやがて弁証法を学びます。意識しようがしまいが、たとえ無意識まで総動員させようが、なにひとつものごとを変えることはできないことに気付きます。自らの至らなさから失意が生じ、やがてそれは含羞みへと深化して行きます。そこまでいけばもう立派な不良の誕生です。私が興味を抱くのはそこから先の領域なのですが。
 書く必要のないことを書きつづったのは他でもない。物書きに限らず、異質なものへの寛容さがなく、万能感から抜けきられないひとたちが多くを占めるようになってきたからなのです。万能感はひとを保身に向かわせます。不良の逆の保守反動ですね。この国の本当に危ないetat actuelはそこいらに在るように思うのです。私がしばしば「搏動」とか「肉声」とか声を荒らげる理由もそこにあります。私があなたになり、あなたが私になる、その振幅のなかで今まで見えなかったものにひとつの形が与えられてゆく。非凡とは異質なものとの相互嵌入、そのイマジネーションの間合いの取りようにあると思うのですが。



投稿者: 一考    日時: 2004年06月15日 23:12 | 固定ページリンク





« 前の記事「幻の猫つづき」 | | 次の記事「失礼ながら」 »

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る