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一考 | 郡司正勝さんの句集

 須永朝彦さんの編輯で郡司正勝さんの句集「茫々」が私家版で上梓されている。「編集後記」にいう。

 先生が公刊された句集は「ひとつ水」(1990年・三月書房)のみだが、実は私家版の句集が二冊あり、一冊は戦後間もない1946年刊の「艸むら」、もう一冊は1952年刊の「ひとつ水」で、三月書房版「ひとつ水」にはこの二集からも若干の句が採られている。なお、私家版二句集は、古稀記念創作集「かぶき夢幻」に完全な形で収録されている。この創作集には、他に舞踊台本・戯曲・詩・訳詩・連句などが収められているので、未読の方には一読をお奨めしたい。

 幼(いと)けなき声して氷解けている
 郭公の絶え間を母の野辺送り
 砂流れて止むときもなしはま(玉偏にのぶん、第3水準1-87-88)瑰(はまなす)の花
 リラの花朽ちたるままの北の宿
 幻となつて堕つる蝶の老(おい)
 腸(はらわた)のなか見ゆる夢の寒さかな
 自殺する少年がゐる憎らしさ
 生ぬるき息を捨てたき雪の原
 ぼろ布かなんぞのやうに秋の暮
 物真似を後悔せしか鴉去る
 枯れ山に暮れ残したる一つ水
 往くでなし帰るでもなき一つ水
 亡き人の夢多くなる目覚めかな
 貝殻の遠くなる日の想ひかな
 帚木(ははきぎ)の野辺の果の一つ水

 「茫々」には俳句にかんする四篇のエッセイも収録されている。三月書房版「ひとつ水」を上梓した際の思いを綴った一文が「私の句集」(東京新聞1990年8月11日)である。

 ・・・なかには第二句集を待ちますなどという礼状をくださる人もあり、やっぱりこれは見るに耐えられるものではなかったのかと、自分では人さまに見せられるようなものではないといいながらも、がっかりしたりするのである。
 いずれ、ちっぽけな欠け石一つでも、投げ出せば、かならず多少の風圧が起こって、それなりに自分に返ってきて傷つき易くなるのだから、人生なにごとも為さぬにかぎる。と、老子の「無」のようなことをいって、ちょっぴり澄ましてみたりするが、しかしまた、傷つくことは、さざ波のような、生きているあかしのようなものだと思い返して、俗人に立ち戻るという有様である。

 さらに「夢・句・狐」(俳句朝日1997年11月号)から引用する。

 夢の構造は、人間にとって、古今東西変わらぬ哲理であろうが、夢と現実の距離は、人により年齢によって、近くなったり遠のいたりするのではないか。耄碌とは、ひょっとして、現実と夢とが入れ替わる時節のことかもしれない。

 郡司さんの句歴は長く、西朔と号す。当初は新傾向の句作をなさっていたが、須永さんの吹挙により、永田耕衣の句に大いに共感を覚えたと聞く。前述の須永朝彦さんの「編集後記」には、

 禅味やシュルレアリスムに通ずる独特の渾沌(カオス)を湛えているとして俳壇外にも熱狂的な支持者を持ち、舞踏家の大野一雄などもその一人であったから、先生の御共感に私は何となく納得した。後には神戸須磨に耕衣翁を訪ねて交友の緒を自ら作られた。

と著されている。

 いわゆる文人俳句のなかにあって、鏡花の句には散文作品と通じる非凡な着想があります。郡司さんの句も同様に、放恣と自制のコラボレーションが見受けられます。郡司さんの為人と作品とを規定する主旋律とでもいいましょうか。もしくは自制の影が為人にも差し、放恣の影が作品にも顔を覗かせる。その錯綜した陰影こそが郡司さんの魅力ではなかったか。自虐に充ちた精神回路を持つひとがマゾヒストになる可能性はほとんどなく、悪意と嘲笑を生きるひとが往々にして自分を責めさいなむのです。それにしても「第二句集を待ちます」などという非礼な礼状を認めるひとなどいよう筈もなく、これは郡司さん一流の自らの悪意への韜晦だったろうと思われます。
 自殺する少年がゐる憎らしさ
 この句を知ったとき、私は越路吹雪の「指からこぼれて、過ぎゆく人生・・・」を惹い起こしたのですが、ここには郡司さんの悪意の構造の原点が示唆されているように思うのです。その原点をいっそ「救いようのない性の悪さ」と書き換えればよりお分かりいただけようか。郡司さんの文言を借りれば、悪意の魅力は、その「骨冷えたる」恐怖感にある。世の中の押しつけがましい、脅迫がましい、動物じみた妖怪とは趣を異にする。また鏡花の人間臭い、妖怪の心意気みたいなものでもなく、いわば宇宙の回帰線上に起こった、いや、実は何も起こってはいない恐怖感のようなもの、向こうへ向こうへ、遠くへ透明に引かれてゆく、冷たい引力のようなもの、そんな骨冷えたる(存在すること)の恐怖感を郡司さんの悪意には感じるのです。
 「だったら死ねば」「だから死ねば」の裏面に張り付いて離れないのは自らをいやしめ見下すこころ。郡司さんほどビビッドな悪意を終生持ちつづけた例を私はあまり知らない。悪意という名の放恣、卑下という名の自制、その狭間にあって郡司正勝の句は屹立している。

 せんだっての連休はひさしぶりに読書三昧に暮らした。読んだ記憶のない鏡花の句をいくつか拾う、ただし未収録かどうかは未確認。序でに斜汀の句を拾う機会もあった。共にお世辞にも出来がよいとは思われませんが、御参考になれば幸甚です。

鏡花
 君か代の石ともならす芋の頭
 雨の中摘むべき草を見て過ぎぬ
 土手の柳母衣靡く事五十間
 大俎の端に寸余の山葵かな
 音や泉石の荵のあさ緑
 物言はぬ僧に逢ひけり閑古鳥
 蛾多く我灯を消して寐たりけり
 新藁や馬の尾結ふ一しごき

斜汀
 つき果てて手鞠の糸のほつれたる
 藪入の早船行くや神田川
 紙袋の蜂の巣誰か流したる
 童の芹を切るなり小俎
 ナイフ磨きて切試みし馬藺哉
 隧道を出てて十里の青田哉
 雷雨霽れたり大四手網荷ひ行く
 重ぬるよ大石小石鮓の壓
 打それし蛍這ひけり乳のあたり
 遠浅や海松布寄せ来る乳のあたり
 踊散つて手拭落ちし草の上
 流れ来る刈草に虫の声すなり
 十町の梨皆紙に包みけり
 炉煙や今朝立つ君に小菜の汁
 額堂の吹雪急なり鳩の声



投稿者: 一考    日時: 2003年11月28日 04:33 | 固定ページリンク





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