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一考 | つわものどもが夢のあと

 先日、酒井潔の「悪魔学大全2」の解説で神戸の古本屋「俳文堂」について触れた。ろくに調べもせず、記憶で書き綴ったため、担当編輯者に迷惑をお掛けした。すこしく訂正しておこうと思う。
 俳文堂主人有川正太郎さんは沛文洞と号し俳句を嗜まれたが自らの句作は纏めず、第六和露句集「阿蘭陀渡」(昭和四十九年八月刊)を遺し、糖尿を煩って逝った。
 私が中学生のころから入り浸り、懇意にさせていただいた古本屋は元町六丁目の俳文堂と同五丁目の黒木書店、それと大阪の浪速書林である。有川さん行きつけの茜屋珈琲店で俳句の講義を三日に一度は聴かされた。新傾向俳句が新傾向風なマンネリズムから脱皮して自由なリズムをとるようになった大正初期の俳諧、または松岡青蘿や内藤丈草の句を教わったのも、すべては有川さん在ってのことである。
 第六和露句集の巻末に付された有川さんの「玉稿愚考」より引用する。

 川西和露逝きて三十年。
 いま、和露第六句集を編みつつ、その玉稿より、ひとつの「驚き」を発見したのである。
 (中略)
 「コビヘツラウ」ことだけが尊重され、高貴な精神的なものを認めようともしないばかりか、まかりちがえば、異端視もされかねないのが世の常で、私達の日常生活の周囲には勿論、あらゆる面においても「オベンチャラ」が余りにも多く感じられるのである。併も、純粋と知性を誇り、人格の反映ででもあるべき筈の「芸術の世界」にあっても、それが常に醜悪な妥協となって、堂々と通用するのが現在社会である。
 碧梧桐門の逸材で、その短律化された数多い和露の秀句からは、微塵も「オベンチャラ」を感じられないばかりか、そこに瞑想的な摯実な真情を吐露する俳人の全貌をみることができるのである。そして定形化した「句の色と形」を、ものの見事に打ち砕き、読む者をして、和露との間に、美に、いのちに、連帯観すら生れてくる不思議さが魅力となってくるのである。

 序でに川西和露の略年譜を。

 1875年 神戸市兵庫区東出町に生まれる。鉄商を営む。本名徳三郎。
 1907年 この頃より碧梧桐に師事。
 1910年 摩耶会を起こす。玉島俳三昧に参加。玉島俳三昧とは備中の玉島で全国行脚中の碧梧桐を中心に十数名の同人が一つ宿に一週間ほど寝食を共にして催された俳三昧を指す。
 1914年 第一和露句集上梓。
 1915年 12月、第二和露句集上梓(短律見ゆ)。海紅同人。
 1916年 12月、第三和露句集上梓(短律多し)。射手同人。
 1914~1916年 和露主宰の俳誌「阿蘭陀渡」発行。
 1920年 第四和露句集上梓。碧梧桐外遊に贐けして。
 1925年 10月、第五和露句集上梓。碧梧桐銀婚式を祝して。
 1938年 和露文庫俳書目をひむろ社より上梓。
 1944年 須磨月見山へ転居。和露荘と名づく蔵書の散逸を恐れ、古俳書を天理図書館へ収め、明治以後の活字本を神戸市立図書館へ寄贈。
 1945年 死去。享年七十一歳。

 今日、「俳諧大辞典」を繙くも俳人の部に川西和露の名は登録されていない。しかし、俳書の部には「和露文庫」が載っている。和露文庫が俳諧史の研究に大きな功績を残したことはひろく識られている。「和露文庫」は野田別天楼開題、安井小洒校訂になる「蕉門珍書百種」の後を追って出版されたもので、共に川西和露が多年蒐集した珍書佳冊の飜刻である。蕉門珍書百種刊行会と和露文庫刊行会は共に神戸市上筒井通七丁目にあったなつめや書店に設けられた。なつめや書店の店主は安井知之、小洒と号した俳人で、全冊の校訂兼発行者である。取り敢えず、頭五冊の紹介を。

 第一編 已酉初懐紙 大正15年1月
 蕪村の後継、高井几董の寛政元年の初懐紙。几董の初懐紙は従来安永二年から天明七年までの十五冊とされてきたため、寛政没年の初懐紙は新発見。衆目に触れざりし珍書。
 第二編 誹諧生駒堂 大正15年4月
 元禄三年、月津燈外の編になる。来山、鬼貫を中心とした浪花の俳風が談林の諧謔より蕉風の閑寂に移ろうとする機運を伺うに最適。
 第三編 青蘿発句集 大正15年6月
 松岡青蘿は日夏耿之介がわが邦のマラルメと讃じた天明の俳豪。巻末に付された同じ播磨の人戸田鼓竹の「青蘿考」は貴重。
 第四編 骨書 大正15年12月
 天明中興の峻豪、樗良と青蘿の両吟を骨子に、青蘿門下の句を収録。加えるに青蘿の未収録秀句を付載。
 第五編 印南野 昭和3年7月 
元禄九年、播州の人、井上千山の撰になる蕉門古老の吟。主として来山、鬼貫系の句の蒐録。

 上記書冊とは別に、野田別天楼編輯になる「丈艸集」が大正十二年九月に雁来紅社から上梓されている。別天楼こと野田要吉が編輯と発行を兼ねた私刊本で、住所は兵庫県武庫郡御影町字掛田。俳句と文章が収録されているものの、連句と漢詩は割愛。安永三年に開版された蝶夢編の丈艸発句集に拾遺五十二句が加えられている。瀧口修造が愛惜措く能わざる一本と評した書冊である。
 青蘿や丈艸に付いて述べるのは他日を期したい。ただ、神戸にかかるユニークな出版人がいたということを書き残しておきたく思う。私は番紅花舎の名で本を出したこともある。番紅花とはサフランのことだが、雁来紅社を念頭に置いての命名であった。薔薇十字社同様、短命に終わったが、五典書院や椿花書局など神戸にもすぐれた出版人がいた。とりわけ、新開地にあった中山書店のご子息中山隆一郎さんが起こした限定本書肆椿花書局の存在は私にとっては大きな励みであった。限定番号を活版で摺り込み、扉本文は共紙による二色刷。彼の典籍形態美に対する熱い思いがなければ南柯書局を続けることはかなわなかった。いまは届かぬ戦友への憐憫、何ともいへぬ物懐かしい紺青の臭いを噛みしめたく思う。

 追記
 日夏耿之介の讃とは「松岡青蘿の象徴句風」、内藤丈艸と瀧口修造については加藤郁乎さんの「夢一筋」を参照されんことを願う。また、「掌中破片」をはじめとする瀧口修造晩年の箴言とも短律ともつかぬ作品には丈艸の響影大である



投稿者: 一考    日時: 2003年11月21日 04:17 | 固定ページリンク





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