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一考 | 世迷いごと

 藤田博史に「桜さくら桜」なる句集がある。1991年4月10日に花神社より上梓されたものであり、「少年をのせた水牛」「絲綢之路」「桜さくら桜」の三部構成で、220句が収録されている。まずは第一章二節目の頭の十三句をどうぞ、

 ふとワープロのうえに虫
 夜仕事に冷えた牛乳のうまさ
 無限の可能性から引き出したものは只のこれだけか
 考え過ぎてなにもかもがパーになる
 うーんとうなってコーヒーを飲む
 ラカンはわからん
 言い切ることのできなさ言い切ることしかできないさ
 思考の過剰、行動の失効、感情の鼓動
 すべてが言い換えであることをたれぞ知る由もなく
 言葉なんかおぼえるんじゃなかったと言葉が後悔している
 句集をくすっと苦笑
 光と音にこんなにうまくだまされている
 ただ文字ばかりの文字である

 「ラカンはわからん」はたしか週刊サンケイかなにかで用いられたタイトルだったと記憶するが、いかがなものであろうか。もっとも、あまりのばかばかしさに調べる気も起こらない。そして、あとがきと思しき文章のあとに、「感謝の辞」が添えられ、「個性的な句集」との自画自賛の文字が見受けられる。わたしが営んできた南柯書局は俳句を主として出版してきたが、これほど「個性的な」俳句にはついぞお目に掛かったことがない。抱腹絶倒のコミッ句、否、まさに絶句と申せようか。コンビニで売られている伊藤園の「おーいお茶」を想い起こさせるが、伊藤園新俳句大賞の水準にすら及ばない。ちなみに、「おーいお茶」所収の俳句より四句、

 白い息セリフのようにはき出した(11歳、鈴木まりあ)
 動かない私の夢と北極星(13歳、徳山幸和)
 ねこじゃらし地蔵をくすぐりあはははは(15歳、越川智美)
 右の手でメール左で春を知る(16歳、二宮理歌)

 通常、読書に求められるのは現象の非凡ではなく、発想の非凡である。なにを読むかでなく、いかに読むかが問われる。屍体解剖でなく、生体解剖のなかにしか血沸き肉踊る読書はないのである。一冊の書物にはさまざまな肉声が込められている筈である。そこから滲み出るメタファーを読み解き咀嚼しなければ、本を読んだことにはならない。しかるに、藤田博史の自称俳句には作品の背後からにじみ出てくる曖昧なもの、目に見えないメタフィジックなものがなにもない。書き手のヴィヴィッドな感性、ふるえやおののき、要するに肉声がてんから欠落しているのである。
 ディレッタントが書物のなかに自分の研究対象となるような面をしか見ようとしないように、医者が人間に興味を抱かずその病気や症例に嬉々とする典型ではないか。美術館やアカデミーに封じこめられた書物や美術品に屍体解剖されているかのようないらだたしさを覚えるように、藤田博史の作品および姿勢にも思想を見失い、知識にのみ偏した俗物の死臭が漂っている。かような世迷いごとを活字にし、かような欠損商品を平気で拵える彼の意識の傲慢さ、尊大さに異議をとなえたい。
 もちろん、「桜さくら桜」にもそれなりの存在理由はある。同書を読めば、たとえいかなる御仁であれ、わたしにだって句が作られるとの確信が持てよう。そこまでの思案と気配りに裏打ちされたものであれば、前言は撤回されなければならない。



投稿者: 一考    日時: 2003年07月14日 22:17 | 固定ページリンク





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