ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





« 前の記事「ですぺらモルト会6」 | | 次の記事「さりげないとは」 »

一考 | 鴉の失意

 愛子さんへ
 私にも「自分」はわかりません。わかっているのは暫定的な存在だということだけなのです。雲も風も木立も鳥もそして人も、生あるものすべては暫定的なものだと思っています。「約束された滅びへのみちのり、『年々歳々花相似、歳々年々人不同』間違いなくひとは変わり、最後は土塊へと昇華されてゆくのです」と横須賀功光さんへの追悼で著しました。その思いはおそらく終生かわらないのではないかと思っております。
 貴女の実存主義的な姿勢に対してですぺらでは中途半端な物言いに終始しました。従って、いずれこのような書き込みがなされるのではないかと思っていました。ただ、進行形で「自分」と格闘なさっている貴女と人生の大半を抛り投げてしまった私とのあいだの時間差、すなわち年齢差にはいかんともしがたいものがあるのです・・・などと書けば嘘になります。年齢に責任を転嫁すれば、事態を中二階へ置き去りにすることになります。やはり、真っ向から意見を述べないといけないのでしょう。内容が内容だけにちょいと疲れます、時を費やして気長にやりましょうか。

 昨日は横須賀さんを偲ぶ会が銀座であったのです。ですから横須賀さんに託けていつも通りのことを記します。
 人は核となるような自分を常に持っているわけではありません。相対し、人と語り合うときだけ、仮説としての自分が存在するのです。そういう存在の危うさ、虚しさ、切なさのようなものをしっかり携えて彼はやってきました。その「仮説としての存在」が彼の原理原則だったのです。真実により近いものは、言葉の端々から滲みでるメタファーのなかにしかない。そしてそのメタファーによって焙りだされ、アナロジーによって射抜かれたとき、未分化なものにはじめて明瞭な形態が与えられ、可視的なものに変化するのだと。これも横須賀さんとの諒解事項のひとつでした。「分かっちゃいないね」が彼の口癖だったと、これもかつて著しました。曖昧なものを彼は忌み嫌いました。対象に確たる輪郭を与えるために、話し合おう、言葉のゲームをしようと、それが私に突きつけられた彼の匕首だったのです。
 高いところと低いところ、昼と夜、現実と想像、そういった境界線を設定できない概念を二項対立の図式で捉えるのは間違いではないかと私は思うのです。貴女はカトリックなので、二項対立や二律背反などの概念に馴染んでいるのでしょうが、元来相克しないものを相克するかのごとく位置づけるのは無理があるように思います。
 話が佳境にはいってくると横須賀さんが「にじり寄ってくる」と書きましたが、にじり寄るどころか、体をぴたりと添わせてくるのです。心身ともに融合を試みるといった按配でした。彼にとっては自己と他者との融合、その一点のみが踏み越えねばならない最後の垣根ではなかったかと思うのです。先だって「『友』が、対置するところのものではなく、相対するところのものでもなく、謂わば伸縮自在なオブジェのような共作物であり、明確な輪郭を保つ観念そのものであった」と著しましたが、それは横須賀功光というユニークな精神の私なりの解釈なのです。
 人はみな他者に託けて文章を著します。しかし、述べるところは自分のことだけ、もしくは解釈とは自己の能力ないしは物差しにおいてしかなされず、人の数だけ異なる解釈が共存するのが世の常なのです。それはそれですこしも悪いことではないのです、ただ、横須賀さんはまるで異なりました。横須賀さんは一種の入れ子構造とでも称すべき包括的融合を求めてきました。それは自分を信じるとか信じないとかの問題ではなく、まったく無防備に自己をさらけだしての趣向であり、自らが不確かで揺れ動く存在ならばいっそ激しく揺すってみようかとの魂胆であったと思われます。かかる場にあって、既存の価値観や定規はなんの役にも立たず、取りうる武器は唯一アナロジーのみ。分からない自分を、やはり分からない他者と重ね合わせ、アナロジーの世界に深く身を沈めることによってなんらかの形が見えてくるのではとの、おそらく最初にして最後のぎりぎりの選択。言い換えれば、彼がですぺらで試みた最終のクリエーションに私が立ち会わされたのだと、いやいっそ彼と私であるが故に可能になったクリエーションだったと解釈致しております。

 「選択がひとつの立場の闡明」である。よく用いられる文言ですが、この「選択」との言葉に内包されるいかがわしさが気になります。生物は与えられた環境に適応し順応して生きてゆくのであって、その環境を選択できないところに存在の悲しみがあるのではないのでしょうか。また、生きてゆくとは死をむかえるまでつづく道程であり、仮説なり暫定なりの繰り返しではありませんか。どうしてその生きるとの不安定かつ不確実な行為に「立場の闡明」が必要なのでしょうか。人の精神に闡明は必要です。しかし「立場」が冠されれば話は別です。立場、立ち位置、拠ってたつ規範、アイデンティティ、どのように申しても結構、それらは口の端にのぼった瞬間、指のあいだから零れる砂粒のように消えてゆきます。なぜなら、精神は運動でありエネルギーであって、固着した精神など精神ではないからです。偽善に類することに思いを致すのは、時を費やすのは徒労ではありませんか。
 私は「『自分』なんてないのだという、立場を選ん」だことは一度も御座いませんし、「『自分』のあり方」を求めたことも一度も御座いません。自己と他者とが融合し合うようなところがもしあるとするならば、未知な新しい精神の領域を得られるようなところがもしあるとするならば、その時こそ有効と思われる選択を試みたいと心しております。対象が雲であろうが、風であろうが、木立であろうが、鳥であろうが、横須賀功光という名の人であろうが、それが何処の地にあろうともそこへ赴きたい。この世に仮に有効と思われる選択があるとするならば、それは融合を示唆するところのものに対して費やされた時間と情熱の重量のみ。その重みこそが「友」であり「愛」であり「観念」ではなかったのか。
 「ノアの箱船から飛んでゆき、二度と戻ってこなかった鴉」の失意の一端がお分かり頂ければありがたいのですが。



投稿者: 一考    日時: 2003年04月23日 01:00 | 固定ページリンク





« 前の記事「ですぺらモルト会6」 | | 次の記事「さりげないとは」 »

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る