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愛子 | 一考様


まだわからないのです。
この世に生まれて何年もたつのにまだわかりません。
まだ、「自分」が一番わかりません。

だから、一考さんのおっしゃる「自分」なんてないのだ、という言葉がよくわからないのですよ。
「自分」なんてないのだという、その立場を選んでいるのは一考さんの「自分」ではないのですか。
それ自体、ひとつの貴方の、「自分」のあり方ではないのですか。
その選びひとつに、一孝さんが滲み出ているではないですか。

いくら否定しても否定しても、「自分」とは残ってしまうものだと思います。 否定する感情がある限り、その感情の中に「自分」が立ち現れます。 どんなに隠そうとして、殺そうとしても、生きている限りそれは漏れてしまうものです。何かをひとつ選ぶたび、全てを持ち得た可能性は消え、ひとつという現実が手に残ります。そのひとつに、どうしようもなく自分は現れてしまうのです。たったそのひとつに、たったひとつのくせに、そこにはすでにあふれんばかりに自分が充満してしまっています。
それは、考えただけでもとても恐ろしい。そして、恐ろしいと一語選んで綴ったそのぶんだけ、またその恐怖はいやますのです。他者からみれば、気にも留めないことかもしれない。しかし、それは救いですらありません。
問題は、何故私が「あれ」を選ばず「これ」を選んだのかということなのですから。だから、選びをすることはとても恐ろしいのです。けれども、現実に生きていこうとするならば、何かを選び続けなければ生きていけないのです。今日、朝起きて食べるもの着るもの、仕事に行けばどの手順で物事をすすめるのか、終わればどうするのか、家に帰るのかどこかへ寄るのか、お風呂に何時に入るか、就寝前に何をするのか。
確かに、このような選びは極々当たり前な日常生活です。誰だってしていることです。しかし、「自分」の選びと完全に全ての選びが一致するほかの人なんているでしょうか。決していません。そのようなことはあり得ないのです。なぜなら、「自分」は「自分」であって、「他人」や「貴方」ではないからです。
だから、何かを選び続けるかぎり、つまり生きているかぎり「自分」がないということが、私には到底考えられないのです。そのような選びをする「なにか」を「自分」と呼ぶかどうかは好みの問題かも知れません。
しかし、そのように考えている「なにか」を、今現在の私は便宜的に「自分」と呼ぶことにしています。なぜなら、他に呼びようがなく、この私の手が、実際にパソコンの前に座り、この文字をつづらせているのですから。

一考さんの「自分」と、私のいう「自分」の範囲が違うのは承知の上。
でも、そうであればこそあえて聞いてみたいのです。

そう、だから、わからないのです。まだわからないのです。
「自分」がないということが、いまだわからないのです。

全て、何をしてもかんがえても、この世は神さまの掌の中。
だけど、目指しているのは「自分」があるだのないだの、わからないだのなんなのかだの、
かような迷い言を抜かす地点を超えることなのです。
自分の存在から解放されることなのです。 自分の存在から逃れることなのです。
それができれば「自分」はプラスでもなくマイナスでもない絶対値ゼロになれる、と思っているのです。

自分で自分を認識しなくなる地点、自我が融解する地点。
そこまで、ゆけば、その地点ならば「自分」はもうないと信じているのです。

かの地点へいたる道は何処か探し続ける、考え続ける、
換言すればそれが生きていくということ。
少なくとも今現在の私にとっては。

ノアの箱船から飛んでゆき、二度と戻ってこなかった鴉がときおり無性に羨ましく。



投稿者: 愛子    日時: 2003年04月18日 03:11 | 固定ページリンク





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