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一考 | 紺青の野辺

 都さんへ
 百人の人がいれば百通りの人生があるように、人の死に接しての悲しみも百通りなのです。個々の悲しみの表現に深浅の違いはあっても、悲しみの質に軽重の差は御座いません。
 公的な場に参列するのがひとつの野辺であれば、ジャン・コクトーではありませんが、一人海にたたずんで見送るのも潔い別れではありませんか。かつて吉田一穂翁が亡くなられた時、私は葬儀にも参列しておりません。没後十五年を経てやっと吉田一穂の生地古平を訪れました。古平の隣町の美国の断崖の下の番屋、一穂の詩で詠われた紺青の海とはじめて対座したのは88年のことでした。それから四度、計五度、私は積丹の海を訪れています。今なお、私の心の野辺は続いているのです。
 物書きとは孤絶との立場を選び取るしかない存在なのです。プラトン的な意味において、親兄弟、連れ添いとも大きく隔たってしまいます。だからこそ、個と個の出会いそして個と個の別れとは「存在という罪へのあがない、美というはりつけの情念への苦さ」を噛み締めかみ砕くことにしかならないのです。
 貴女に心の痛みを与えた女性の死について三年後、否五年後になればなにか著せるかと思います。それまでは黙するしかないのです。幻想文学を内包するところの異端の文学、異端の文学を内包するところの圏外文学を博捜し紹介したところに澁澤龍彦、種村季弘、矢川澄子の・・・等といくら贅言を費やしても、個としての彼女の思想すなわち情念に肉薄はできません。
 此岸に遺された「うららかな情念のまがり 昔のはるかなるにおい うとうととまどろむ」愁い、そういった彼女の記憶を私がどう咀嚼しいかに読み替えるか、おそらく問われるのはその一点のみでしょう。



投稿者: 一考    日時: 2002年06月16日 15:15 | 固定ページリンク





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