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一考 | 異端とはなんぞや

 松友さんへ
 「やはり拙メは、ここ、掲示板にても異端の徒となっているように感じます」こういう書き方はよろしくないのでは。と申しますのは、異端の徒でもなんでもよろしいのですが、自らを定義づけるという点に私は納得が行きません。
 異端であれ、変人であれ、それら文言から来る優越感と遜った様子に示唆されるコンプレックスの鬩ぎ合い。それを自らの性格の一端として他者へ押し付けるために強調なされるなら、それはそれでよろしいのですが、「私は」との主辞の後にやってくる「何々である」との賓辞、言い換えれば、人の稟質のようなものを自ら定義するのはかなり無謀な行為ではないかと思います。ヘーゲルにせよ、ニーチェにせよ、バタイユにせよ、世の哲人はその一点の証明のために夥しい量の原稿を費やしています。我ら凡人にとって、かかる判断は他者に委ねるのが最も賢明な方法ではないかと思います。というよりも、人品骨柄など、他者が判断すべき筋合いのものであって、自らが自らに下すのはさかしらな迷いごとのような気がします。誤解を畏れず申せば、他者とは自己の鏡であり、自己とは他者の投影ではないのでしょうか。
 この消息は、昨今用いられるようになった「私的(わたくしてき)には」にも同様。意見は陳述するものの、確たる自信はなく文責は負いかねる、結果として賓辞はともかく、主辞の方は弱めておこうとの自己防衛が無意識が働いているものと思われます。それら孰れもが、大事なのは私だけとの同心円を描いています。複数の芯を持つ楕円であれば、弁証や懐疑が生まれる可能性も在るのですが、同心円では同じところを繰り返し巡るだけ、犬が自分の尻尾を銜えようとぐるぐる回るのに似て、それでは自らの精神になんら変化も深化も齎しません。当然、精神に進歩や進化などは存在する筈もないのですが、深化を拒否すれば精神は老い、すべては滞ってしまいます。
 プライド、オリジナリティー、パーソナリティー、ポリシー、アイデンティティー等々。政治用語から社会学用語に至る虚言に、現代人はすがりつき、振り回されているようです。虚言と申しましたのは、それらの文言は中味すなわち実体をまったく伴っていないからです。虚言癖をかなぐり捨て、肉声を発しようではありませんか。肉声とはおのが迷いであり、逡巡であり、懐疑なのです。それは心の中にふるえを、畏れを、おののきを齎します。でも、それでよろしいではありませんか。精神に賓辞などあろう筈もなく、人に安住の地などあろう筈もないのですから。



投稿者: 一考    日時: 2001年10月28日 02:40 | 固定ページリンク





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