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一考 | アンチ・オイディプス

 ドゥルーズとガタリの「アンチ・オイディプス」の新訳が河出文庫から上梓された。発売後、わずか一週間で二刷になった。しかも文庫の初刷部数の常識を越えている。
 精神分析や革命の定着はおろか、実存主義も構造主義もなにひとつとして読み解いた哲学者をわが国は持たない。小林秀雄以降、吉本隆明のごく一部を除いて、哲学や文学を語るに価する作家がひとりとして輩出されなかった日本の這辺において、いかように本書が繙かれようとするのか、面妖なはなしである。
 旧訳が開板されたときに、吉本隆明が否定的な書評を綴った他、さしたる反応はなかったように記憶する。その書評にしてからが、家族か社会か、保守か革命か、パラノイアかスキゾフレニーか、オイディプスかアンチ・オイディプスか、といった花田清輝や林達夫的二者択一を一歩も出るものではなかった。(この問題に関しては、家族という「対幻想」の場が意味するものを当掲示板で書き継いできたつもりである。さらに書き込みたいと思っているので、ここではこれ以上は触れない)
 訳者の宇野邦一が「あとがき」のなかで、スラヴォイ・ジジェックの「身体なき器官」を援用しての揶揄は取りも直さず、痛烈な吉本批判になっている。

 シニカルな資本主義は、次々シニカルな思想を生み出すので、「器官なき身体」を「身体なき器官」によって脱構築しようとするような試みも生れてくる。そもそもドゥルーズとガタリにとって、「身体なき器官」は、「器官なき身体」の危険そのものであり、「器官なき身体」と同時に部分対象の群れとして生み出されうるものであった。
  ・・・・・
 人間が身体と自己を切断(去勢)することによってある空虚(非身体)を生み出すことは、そもそも人間が精神であることに他ならない。ユーモアたっぷりに見えて、そういう自分の信念だけは決して笑うことのできないジジェックは、「アンチ・オイディプス」の生成、生産、そして器官なき身体の理論を、ドゥルーズの非身体の哲学を裏切るものとして批判する。これは奇妙な切断といわなくてはならない。

 それこそ、「ユーモアたっぷり」の明解な論理がここにはある。さればこそ、結論もいたって明解である。ドゥルーズは「精神、身体、自然を連続的にとらえるプラグマティズムあるいは一元論の発想を一度も捨てたことはない」、さらに、ドゥルーズにおいては身体の哲学と非身体の哲学がトポロジックに並存してい、いわば「双面をもつ哲学」を提出しているのである、と宇野は指摘する。
 ヘーゲルの法哲学の批判的再検討をさぐる過程でマルクスは「資本論」を著した。同様に、本書で提出される世界史的展望は、包括的に展開されるヘーゲルのそれではなく、むしろ世界史を別のまなざしによって切開し、別の問題を発見しようとする試みなのである。
 私のようにシニカルな人間にとって、「思考の対象を包括するのではなく、思考の姿勢を変えることをうながしたい」との言葉は大きな誡めとなる。まるで混沌や退行からの飛躍を常にうながされているようなものである。そういえば、種村さんも混沌から逃げ回っていらした。
 集団としての紐帯を固めるもろもろの儀式、パターナリズム、アイデンティティ、帰属、境界といった「母殺し」を絶えず繰り返してきた私などは、さしずめアンチ・オイディプスの典型と言えようか。
 土曜日の深夜の氷川台、ひょんな偶然で出遇った宇野さんに、そのアンチ・オイディプスが「アンチ・オイディプス」を碌に読んでこなかった不幸を告白した。このたび贈られた「アンチ・オイディプス」は熟読しなければならない。読書とは家族や性や自我を構成する無数の分子を注視することであり、今までとは別様のそれら分子の結合や共振を見いだし続けることに他ならない。



投稿者: 一考    日時: 2006年10月30日 23:10 | 固定ページリンク





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