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一考 | 「神戸の残り香」成田一徹

 神戸は湊川の生まれである。福原、平野、菊水、夢野から東川崎、築地、和田岬、御崎に至るまで兵庫区で知らない路地はない。兵庫区に限らない、旧神戸市内の道という道はことごとく自転車で走っている。駄菓子屋からお好み焼き屋、居酒屋から女郎屋、喫茶店から外人バー、パン屋からミンチカツ屋、散髪屋から古本屋、仕立て屋から家具店、三井桟橋からメリケン波止場までである。最初は玉子屋にはじまり、郵便局、運送屋等の配送アルバイトを長くつづけたので、否応なしに覚えてしまった。しかし、未曾有の大地震によって神戸の町は崩壊した。従って、私の知る神戸はかつての神戸の残り香でしかない。
 その記憶を洗いざらい絞り出しに来たひとがいる。切り絵をよくする成田一徹さんである。彼とは夢野台高校の同窓生である。もっとも、彼は卒業しているが、私は卒業していない。私は高校を三度転校し、そしてその都度追放された。理由は書かないが、当時の私の仇名は「狂犬」、それだけでお分かりいただけるかと思う。十代の頃は荒れていた、ひとも社会も許すことができず、手当たり次第に叩き壊すといった反抗的な生活だった。煉瓦や鉄パイプは言うにおよばず、刃傷に及んだことも一度や二度ではない。触れれば傷つき、火傷するような熱い日々を送っていたのである。それを彼は知っている、知ったうえでの取材であった。

 子供のころ、築地の中央市場や兵庫港、もしくは和田岬へ行くには新川や兵庫運河の渡し舟に乗らなければならなかった。ゴム長を履き親父に連れられて店の仕入れに、または三菱造船で修理される艦船を見によく行ったものである。その新川に大輪田橋が架かっていた。成田さんは綴る。

 これほど凄みのある生き証人も少ないだろう。
 一九四五年三月十七日の神戸大空襲のときは五百人の命とともに自らも炎に包まれた。生へのかけ橋となるはずが地獄になった。そして一九九五年一月十七日午前五時四十六分、三本の飾り柱が落ち、欄干の一部が壊れた。が、それでも崩れ落ちずに踏ん張って生きていた。
 新川運河に架かる石造りのアーチ橋、大輪田橋である。
 飾り柱の一本はモニュメントとして復元され、二つに割れたもう一本は傍らに置かれた。欄干の黒い焼け跡が消えることはない。
 晴れた日には欄干に深い影ができる。
 齢八十一歳の沈黙の語り部。こいつにはかなわない。

 神戸という街に住んでいたひとたちにはいささかの未練も執着も持たない。ただ、記憶のなかを当てどなく彷徨う神戸の街そのものには怨みもつらみもない。いっそ、記憶という名のかすかな匂いを好ましく思っていると書いておこうか。

「神戸の残り香」成田一徹 切り絵・文
神戸新聞総合出版センター 定価1800円+税



投稿者: 一考    日時: 2006年04月11日 23:01 | 固定ページリンク





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