ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





« 前の記事「原稿が送られません」 | | 次の記事「稲垣足穂全集未収録作品の連絡」 »

一考 | 二律背反

 「これが私ですよ」と言って、ひとさまに差し出せるようなものは何もない。もっとも、引き出しがないわけではないので、なんでもよいと言われれば、適当に見繕う。酒の肴を見繕うようなもので、ちゃらんぽらんである。山海の珍味から竹輪の穴にチーズをねじ込んだだけの簡便なものに至るまで、引き出しに収められたネタはさまざまである。相手の変化相を観察し、それにふさわしいと思われる尻尾を配り歩く、といっても差し支えない。従って、その尻尾が好みでないと言われたところで、それは相手様の責任であって、私の責任ではない。差し出せと言われたから差し出したまでのはなしであって、個々の尻尾に悪意とか戦略といった大仰なものはなにひとつ含まれていない。

 「私には包みかくさなければならない本心や才能の持ち合わせは最初からなにもない」と書けばそれは嘘になるが、それに近くありたいと願っている。だとすれば、ひとさまの評価が私の総体になる。その消息を逆に述べれば、ひとさまがそうだと言えばそうなのだし、そうでないと言われればそうではないのである。この場合、当方にしかるべき刷り込みがないので、それらの評価は取りも直さず、評価者自体の本心を指すケースが多い。
 かつて福原では狂犬と呼ばれた、神戸のムーンさんからはセンチメンタリストと呼ばれ、某詩人からは複雑骨折、某歌人からは品がないと言われている、つい先頃は女友達から「世界を常に陵辱し、それが生きることなのだと」思っていると評された。世界を視姦し陵辱するほどの能動性が私にあるかないかで思い悩むより、評した女性が視姦や陵辱を望んでいると解釈したほうがはなしは分かりやすい。もっとも、彼女にそう思わせる尻尾を届けたのは私である。「にんまりとほくそ笑む尻尾配達人」との言葉はこのような状況で用いなければならない。
 徒し事はさておき、環境や相手によって、「私は何々である」との主辞と賓辞の関係はさまざまに変化する。その変化相に応じて、予期しなかった新しい環境や相手が現れてくる。その度々に引き出しのネタが増えてゆく、要するに尻尾が増えてゆくのである。やがて引き出しは満杯になって混乱し、ますます自分が遠のいてゆく。
 まあ、自分のことなどどうでもよろしい。遠のいたら遠のいたで、遠ざけておけばよいのである。自分自身への好奇心や執着はなにも生まないが、ひとさまに対して抱く好奇心は精神の若さをもたらす。個々に異なる生活環境に即応してひとはとりどり、また言語や気候に応じて人情世態も多様である。それを刮げおとしていくのではなく、永久磁石のように取り込めばどうなるのか。足穂ではないが、青菫派が流行れば青菫派、未来派が流行れば未来派、キリスト教が流行ればキリスト教、実存主義が流行れば実存主義、宇宙論が流行れば宇宙論、仏教が流行れば仏教と、彼ほど流行りものに対して操を奉げた作家は珍しい。そのちゃらんぽらんさに私は魅入られたとでも言っておこうか。
 またまた脱線気味だが、これはひとつの読書論でもある。自分自身が胎動をはじめるまで、他者すなわち書物のなかで解体を繰り返していればよいのである。そして胎動がはじまらなければはじまらないで結構なことである。そんなときは夢野久作でも読むにしくはない。蠧魚生活がながくつづけば、「これが私ですよ」と言って、ひとさまに差し出せるようなものは薄らいでゆく。その代わり、ひとさまのお好み次第で、望むがまま、どのような姿にでもなられるようになる。



投稿者: 一考    日時: 2006年03月29日 22:12 | 固定ページリンク





« 前の記事「原稿が送られません」 | | 次の記事「稲垣足穂全集未収録作品の連絡」 »

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る