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一考 | 虚い

 「終わりなんざあ、どこにもない」と思っている。敢えて申せば、死ぬ時がなにかの終わりなのであろう。この場合の「なにか」は「かくしあらばなにか植ゑけむ山吹の止む時もなく恋ふらく思へば」の「なにか」であって、疑問を表したつもりである。ひとに限らず、存在は押し並べて新陳代謝である、物質交代と言ってもよい。従って、死をも含めてひとは暫定的なものだと思っている。暫定的だからと言って、死後の生活や霊魂、もしくはサンサーラを肯うわけではない。
 「人間は死後もなんらかの形で存続するという普遍的信念」など私にとってはどうでもよいし、人間の本質が実体的な霊魂だとも思っていない。普遍性にせよ信念にせよ、それらはひとを惑わすものであって、訝しく思うだけである。また、「人間の本質」を考究しようにも、概念それ自体が未だに諒解できないでいる。「実体的な霊魂」など、私にとっては雲をつかむようなはなしであって、胡散くささ以外のなにものでもない。そもそも、肉体と精神を分離しようとの試みそれ自体が不可能事で、包括的に考えなければ身体論など成り立ちようがないではないかと思われてくる。

 澁澤さんの作品には氏の趣味や嗜好が色濃く表出されている。そして、趣味や嗜好は自己の信仰告白であって、他のなにものでもない。自分を信じなければ趣味や嗜好の持ちようがないからである。しかしながら一方で、氏は自らのオブジェ化への志向を執拗に書き表す。自らのオブジェ化とは取りも直さず自分自身の否定である。氏の作品を評するにタピストリーとの文言がよく用いられる、それは氏の否定と肯定との弁証をつづれ織りに擬えたものかと思っていたが、どうやらそうではないことに最近気付かされた。氏の作品にあって、色とりどりの糸で織り出されるものは粧いであり、仮面のようなものなのだが、どうやら大方が示唆しようとしているのはそちらのようである。音が同一なので、その粧いを虚いと言い換えてもよい。虚いは表層ではなく、澁澤が織り出すに用いる糸そのものではなかったか。否、澁澤にあっては表層も内面も、暗喩も換喩もことごとくが入れ子構造になっている。
 例えば、足穂の「少年愛の美学」は少年愛や男色とはおよそ縁のない書物であって、あれは刹那の哲学的宣言書だったと私は解釈している。作家は自らの趣味性を恣行し、それを原資に飛翔し、そして墜落する。澁澤さんから勝手に学んだいましめは、「人生は朽ち縄に取りつくようなもの」である。澁澤の虚いについてふたたび書いてみようかと思っている。



投稿者: 一考    日時: 2006年03月26日 00:03 | 固定ページリンク





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