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一考 | 売春という黒い穴

 このところ、松岡さんの歌集「青空」の出版記念会とピエール・ギヨタのシンポジウムが続きました。出版記念会のあとは佐々木幹郎さんと酒を酌み交わし、高橋睦郎さんの初期三冊の詩が英訳され、欧米の同性愛者のあいだで熱狂的な支持を得てると聴かされ、うれしく思いました。
 先月、ドウォーキンが亡くなりました。男性と女性の関係はすべて性関係であり、その性関係はすべて性差別である、との信念に則って、彼女の「強姦一元論」(すべての性行為は強姦である)は展開されました。吉澤夏子さんはドウォーキンの信念を「極端にいえば、誰かを女だと見なした瞬間、それはすでに相手に合意のない性関係を強いていることになり、それこそが性差別だ」と著し、「ドウォーキンを読むことの醍醐味は、この鮮やかな世界観の反転を体験・感受するということのうちにある」と結論する。ドウォーキンが引き継いだ「性と政治」の論理はSMの世界や同性愛の世界にもそのまま通じます。彼等、彼女たちはマイノリティであるが故に、日々、否応もなくポリティカルな場に裸で抛り出されているのです。
 イギリスで客死したシモーヌ・ヴェーユはホメロスの叙事詩を「敵に対する侮蔑の不在」と論じた、否、論じざるを得なかった。それほどまでに、第1次世界大戦以降の争いは汚濁に満ちたものになりました。ジュネやギヨタが、人身売買、売春、奴隷といった戦争と性の関係を執拗に書き綴ったのも、「性と政治」の問題、売春という黒い穴をいまいちど穿ち直そうとしたのでなかったかと思うのです。
 家庭と娼窟と戦場では強姦と奴隷性が合法的に演じられ行使されます。その偽善と暴力を問い、個人のなかに潜む政治性を告発しつづけるギヨタの文学は人間性に対する根元的な侵犯行為そのものではなかったかと思います。人間の身体は人間の欲望によって使用されます。謂わば人間の身体は生きた貨幣のようなものなのです。それを諾わなければ、性愛の可能性について思惟することはできないのです。
 美しい言語を巧みに操るところに文学があるのではなく、「文学とのかかわり方を根底から検証しなおすことを余儀なくさせる」もしくは「50万人の兵士の墓」を読んだあとではもはや同じ人間ではありえない等々、今回のシンポジウムはいろんな刺戟をもたらしました。機会を与えてくださった鵜飼さん、宇野さん、そしてギヨタ氏に感謝。

 当掲示板で「50万人」を「500万人」と誤記したらしく、見てきたような嘘を書くのが文学ならいっそ「5000万人」の方がよかったのでは、それでは全国民になります、いや滅びた方がよかったのではと、大笑いになりました。もっともギヨタの文学とは関係なく、さような瑣末なことをあげつらうような貧乏性のひとはいまいと思います。
 ギヨタの文学はマルクスの量と質の弁証法とベンヤミンの「単なる性」を大向こうから文学に持ち込んだのですが、ルリイのサドに関するエッセイから大きな影響を受けたと聴きました。ドゥルーズがマゾッホの影響下にあるのと併せて、ますます興味を抱きました。ドウォーキンが「強姦一元論」で定義づけた絶望の果てにやってくる価値観や世界観の顛倒に一縷の望みを託したように、「50万人の兵士の墓」の第七章はあまりにも美しい。第七章に顕れた動物の概念をこれから読み解かなければならないのです。



投稿者: 一考    日時: 2005年05月27日 19:43 | 固定ページリンク





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