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一考 | 建前と本音

 moondialさんへ
 お誉めにあずかるとたちどころに饒舌なものを書きたくなる。あなたは私のいい性格をよくご存じですね。
 危急存亡に関しては「もう、どうでもいいや」が本音です。そもそもモルト・ウィスキーの専門店などという無謀なことを考えたのが運の蹲。戸田の税務署から、赤提灯や縄暖簾のような安価が売りの店の原価は10~15パーセントまで、モルト専門店の平均原価は40~60パーセント、これではやらない方がましじゃないの、と注意されました。それでも、利益率は出版よりは遥かにマシなのですが。
 先日、お客さんに連れられて行った某有名店に、予て気にしていたモルトがあったので遠慮なく馳走になりました。価は一杯4000円だったのですが、ボトルの仕入れ値は48000円、原価率は55パーセント、そんな商売したくないですよ。こころはオホーツク、知床の空を翔び舞っています、こちらは建前です。

 建前と本音と云いますが本音と建前とは云いません。これは憲法と法律、理念と制度のようなもので、おそらく優先順位に従っているのでしょう。当然、建前と本音は理念的な文化と制度的な文化、言い換えれば、規範的な行動と現実的な行動との対照を示唆しています。
 ものを書くのは本音と云うか、他人の迷惑を顧みないで限りなく本心に近づいてゆくものなのだ、と疑いもなく信じていたのですが、掲示板をはじめてから必ずしもそうでないことに気がつかされました。
 親や兄弟、連れ添いや子供を相手に自由な発言は慎まねばなりません。例えば変態(内容は個人差があるので触れません)であるとして、その歪みはご当人の理念であり立派な建前なのですが、それを家庭内に持ち込んだり、連れ添いに強いることはできません。できなくもないのですが、その場合はおそろしく骨の折れる難儀な問題、おそらく離別や離婚のやむなきに至ります。従って、最初からひとり身を通すか、想像の世界でのみ済ませるか、もしくは理念の発露にふさわしい場へわざわざ赴くことになります。ところが理念それ自体が千差万別、たとえ然るべき場であろうとも、状況からの要請を受け容れて現実と妥協しなければなりません。文化人類学者我妻洋に従えば、内面的な一貫性に価値を置くアメリカ人も、実際にはアド・ホックな(その場限りでの)解決法をみつけようとするし、またダブル・スタンダード(二重基準)を設けて現実の建前化を図っているようです。
 十代のときのはなしですが、はじめて鏡花を読んだ折、善玉と悪玉の二項対立のオンパレードにうんざりさせられました。団十郎の「荒事」と云うよりは中国の瞼譜からヒントを得た隈取りの紅の熱情と藍や墨の陰性、すなわち正義や超人力と恐怖や悪の類型との図式です。一方で鏡花には黄昏時や逢魔が時にただならぬ関心を寄せるという、一見、包括弁証法を想わせるような面もあるのです。本音が相対的に優位を占める日本社会では、建前と本音のあいだの相互浸透や両者の使い分けが顕著です。私は鏡花のあまりにも日本的な部分、詭弁をもてあそぶような部分、または一貫性のなさに愛憎半ばするものを感じたのです。要するに、善玉と悪玉を対置した作品が鏡花作品のなかからなくなれば私にとって理想的な作家ということになるのですが。
 二項対立を拒むのは不可能と云うよりも、二項対立から逃れ得ないと云った方がより正確なのでしょう。しかし、何かしら胡散臭さがつきまとうのです。十五、六歳のころ、現代思潮社からブルトンの「シュルレアリスム宣言」が出版されましたが、境界線の引かれないものに無理矢理境界線を拵える「ブルトン流」に嫌悪感すら抱きました。至高点の必要を説くに際して、ねじ曲げられた二項対立のオンパレードが説得力を持つとでも思ったのですかねえ。ブルトンは感じるひとなのであって、決して考えるひとではないのです。その証拠に「シュルレアリスム宣言」は箸にも棒にも引っ掛からない駄作ですが、「ナジャ」はすばらしい作品です。
 さて、理念的文化は妥協というフィルターを通して、そのことごとくが制度的文化と化していきます。そして生活上の行動を動機づけるのは、本音としての制度的文化の方なのです。ならば、妥協を排して一途に建前の追求にひたはしるのが文章を認め綴る場ではなかったかと、そう気づいたのです。「掲示板をはじめてから必ずしもそうでないことに気がつかされた」と前述した理由です。
 思うに、私はいままで妥協とはあまり縁がなく、勝手気儘に過ごしてきたようです。そのわがままは当然私の欲するところだったのですが、それは本音ではなく、あくまで建前だったようです。他人の迷惑を考慮するのが本音であって、他人の迷惑を顧みないのは建前、生活破綻者の私は振り返るまでもなく建前論者だったわけです。そんなことすら気づかずに、建前と本音と云う二項対立の親玉を目の前にして深い溜め息をついていたようです。もっとも、建前と本音のような下らないことはどうでもよいのです。なにが建前でなにが本音かは閑人がそれこそ勝手にやればよろしいのであって、私がもっともこころ惹かれるのはその狭間、どちらともつかない曖昧な領域に棲息する「ぼやき」なのです。花の都三ノ宮でぼやきを肴に飲みつぶれたいものです。



投稿者: 一考    日時: 2004年08月27日 01:16 | 固定ページリンク





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