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一考 | オポッサム

 オポッサムと豆


 頭蓋骨の中で からからと鳴るのは豆粒
 オポッサムは二十五個 スカンクは三十五個
 アライグマは百五十個 アカギツネは百九十八個
 コヨーテは三百二十五個 オオカミは四百三十八個

 北アメリカの雪の原野で
 シートンは言う
 オポッサムは救いがたい

 小さな豆が二十五個しか入らない頭蓋骨なんて
 何を考えているのか
 森の中で出会うと 突然眼を閉じて
 眠り出す 何時間でも 死んだふりをする

 狩猟で暮らした祖先たちにとって
 闘うことを知らない獣は はじめてだった
 眠ることが闘いだなんて

 ケンタッキーの冬
 叔母さんの家のかまどの横で寝ていた
 オポッサム一頭
 頭をもたげて 雪降る野に出た

 七日後
 夜の台所の扉をひっかいて
 十頭のオポッサムが戻ってきた

 叔母さんは考える
 暖かさについて
 仲間に伝えることができる言葉について
 オポッサムはオポッサム語で

 かまどの横で寝続ける十頭
 頭蓋骨の大きさに何の意味がある
 豆が何個入るかなんて


 「現代詩手帖」二〇〇二年一月号へ掲げられた佐々木幹郎さんの詩の無断掲載です。横書きの詩は一切読まないと公言してはばからない、そのご当人の詩を横組みで掲げるのですから、叱責を受けるのは覚悟のうえ。無謀を承知で敢えて掲げたのは他でもない。一読、感嘆を久しうしたからである。この詩を読んで佐々木幹郎さんの才能に目を見張らないものに詩を語る資格はない。吉岡実さんの「僧侶」を想わせる寓意詩であり、花田清輝の「泥棒論語」や「鳥獣戯話」を彷彿させる。現代詩のひとつの到達点、謂わば「婉曲」の極致を示唆してあまりある傑作だということを特筆大書しておきたい。

 文中「死んだふりをする」と著されているので、対象になったオポッサムはキタオポッサム。アメリカ合衆国からアルゼンチンに分布するドブネズミに似た有袋類。水辺の森林を好み、尾をたくみに枝に巻きつけ高いところへ登りたがる。夜ともなると腹を空かしてちまたを徘徊、果実、小鳥、卵など口にはいるものは手当たり次第。ひどい空腹は強度のヒステリーをもたらし、ときにニワトリを襲いもする。体は白から灰色だが、特に腹の黒い奴が高級官吏をつとめる。きっと九頭の仲間を連れ帰ったオポッサムは墨田区長なみの太っ腹かつ親分肌のオポッサムと思われる。
 コモリネズミ、フクロネズミとの別名を持つが、これもお得意の韜晦がなせる業。子守の名称を冠せられたのは荒淫の結果であって、実は腟と子宮をふたつずつ併せ持つ名うての色魔。真獣亜綱と異なり、大脳半球を結ぶ神経路の脳梁がないため、性欲が満たされないときには癇癪を起こす。この脳梁の切断を誤解したのがフロイト。ヒステリーの治療法に脳梁の切断を選んだとき、彼の頭にあったのは英語の「play opossum」であって、意は「死んだ、眠った、忘れたふりをする」である。一方、アメリカ‐インディアン語の「オポッサム」には「癇声を発するネズミ」すなわち「こけおどしのあかんたれ」の意が含まれている。さすがのフロイト大先生もネイティブ・アメリカンにまでは思いが至らなかったようである。
 ベネズエラからアルゼンチンに生息するミナミオポッサムとのあらがいは南北朝の闘いにも似て、アメリカ両大陸を股にかけての歴史上でも前例のない動乱の世紀であった。などと書き出すとはなしは長くなる。次回は、頭蓋骨の中でからからと鳴る二十五個の豆粒の註釈を試みたいと思っている。



投稿者: 一考    日時: 2004年05月18日 00:31 | 固定ページリンク





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