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一考 | 「友」について

 ふと思い起こした言葉が涙を誘いました、久しぶりに。「友」の死を思い起こしたのです。あれからまだ二箇月半しか経っていません。でも二十年くらいの歳月を経たような気がするのです。

 概念は言語によって表現され、その意味として存在します。だからこそ「友」の概念の整理を、すなわち相手との対話を私はかまけてきたのです。いままでお付き合いいただいた方はほとんどが年長者でした。従って当方に遠慮があり、例え疑問に感じてもそれを口には出せなかったのです。また編輯を生業になさった方ならお分かりいただけるのですが、黒子ゆえの強いられた沈黙がございました。「そうじゃない」「いや、そんなものではない筈だ」との疑いを抱いても、人品骨柄にかかわる議論を闘わせるのはすべてのケースにおいて不可能でした。やばいと思う直前にはなしを相手へのオマージュにすり替えるか黙するか、もしくは「まあ、いいから飲みましょうよ」の繰り返しに終始するのが常でした。編輯者同士の酒席では極めて辛辣な言葉が飛び交うのですが、その手の仲間内での雑言が嫌で、私は概ね沈黙を選択するか、下ネタに振るかしてお茶を濁してきました。なぜ嫌かと言いますと、一方で編輯し本を拵えながら、一方で毒舌を吐く、その整合性のなさが許せなかったのです。「嫌なら出版するな」「あたまに来るならやめちまえ」と自らに怒鳴りつけたくなるのです。
 編輯に限らず、どうやらこの世の中、何処へ赴こうとも本音と建前があるようです。それは恋情の足を引っ張る時と生活のようなものです。人は間違いなく現在を、刹那を生きているのですが、その一方で、明日飯粒がなくなるとか来月の家賃をいかにして工面するかとか、あらぬことにも執心しているのです。そうした不純な面、すなわち「自分自身の中の悪」に思いを致せば、
すべては妥協または諦観の産物なのかもしれないなどと考えたりもするのです。
 「友とはなにか」「友ってどんなものなのだろう」現況への満足もなく、判然としないままに齢五十五に至りました。そんな時なのです、「一考さん、ゲームをしようよ」。「人生はたちの悪い冗談」を地でゆく人が現れました。彼は「友」に確たる概念を抱いていました。「人品骨柄にかかわる議論」が、批判が双方向で行われること、互いの原理原則をぶつけ合えること、そしてその原理原則の主人であるところの自分自身を信じないというもっとも大切なことを繰り返し諒解しあえること。その最後の諒解がなければ、議論がゲームになりませんから。
 蟋蟀は九回脱皮すると言われます。また蟋蟀の成長は、昼が短いと成長が早くなる短日型です。共にいるかぎり、脱皮を際限なく続けましょう、あなたとならできそうな気がするのですが。「あなたとなら・・・」この一点に彼の論理のからくりが、あやかしがありました。ゲームのなかでは頻繁に、あなたがわたしになり、わたしがあなたになります。「それ自体では目に見えない観念が、アナロジイによって、可視的なものになる」ように、互いの見えなかった部分が滲透しあうことによって、白日のもとに曝されていきます。言い換えれば、あなたでもない、わたしでもない、そして誰でもないところの存在、「友」に明解なひとつのかたちが与えられていったのです。「友」が、対置するところのものではなく、相対するところのものでもなく、謂わば伸縮自在なオブジェのような共作物であり、明確な輪郭を保つ観念そのものであったと申せば、横須賀さん、いかがかしら。



投稿者: 一考    日時: 2003年04月01日 04:49 | 固定ページリンク





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